沈みゆく太陽が、世界をオレンジ色に染めていた。遠くの空を、どこか哀愁を感じさせる鳴き声を響かせてヤミカラスの群れが横切っていく。
 その夕暮れによく映える、ヤミカラスの濡れ羽色の体よりもさらに深い闇のような色の体を持つポケモンが一匹、ミオの空を漂っていた。闇の一部を切り取ってそこに命を吹き込んだような姿をしたポケモンは、あんこくポケモンのダークライだ。


 ダークライは街の中でも極めて高い建物の屋根の上に静かに降り立つと、美しい色の眼をすっと細めて街並みを見下ろした。眼下に広がる街には、帰り道を急ぐ大勢の人間が見える。

 人間に騒がれるのが嫌いなダークライは滅多なことが無い限り街へと姿を現さないのだが、今日は特別だ。何故なら今夜は月が姿を消す、新月の日なのである。
 こんな日には何となく、棲み処であるしんげつ島でじっとしているよりも街へとやって来たくなるのだ。


 
 太陽がゆっくりとした速度で傾いてゆくのを、ダークライはただじっと見つめていた。街の喧噪はどこか遠くに聞こえる。
 そのまま暫くの間、夕陽がミオの海の彼方へと沈んでいくのを眺めていたダークライだったが、そろそろ場所を移動するかと考えると、建物の影の中へとその姿を消した。


 屋根の影を、壁の影を伝い、暗い路地裏へと移動したダークライは、そのままひっそりとした人気のない場所を求めて移動する。
 普段感じることのない賑やかさは先程街並みを眺めただけでもう堪能したので、今度はしんげつ島とはまた別の静かな空気を味わいたかったのだ。

 そうしてすっかり太陽が身を潜めた夜を迎えた頃に辿り着いたのは、街外れの小高い丘の上だった。
 丘の上には疎らに木々が生えており、何もないよりは賑やかなはずなのに、それが逆にどこかひっそりとした寂しさを際立たせている。こちらの方に来たことはあまりなかったが、この静かな空気は好きになれそうだ、そうダークライは思った。

 辺りを観察するように見回したダークライは、疎らに生えた木に囲まれるようにして、一軒の小さな家がぽつんと建っていることに気がついた。
 辺りの寂しい空気に溶け込むような、これまたひっそりとした雰囲気の家だ。
 そして家の傍の木々の間には細いロープが数本張られていて、その内の一本に一枚のタオルが干されている。しかしそれ以外には生活感を感じさせるようなものは見えない。


 廃墟だろうか?そう考えたダークライは、そっと家に近寄る。すると閉じられた窓とカーテンの隙間から、僅かながらではあるがぼんやりと明かりが漏れているのが分かった。

 こんな辺鄙な場所に誰かが住んでいることに驚いたダークライだったが、更に驚いたのはタイミングよくその家の、それも彼が覗いた窓の傍の扉が開いたからだ。

「おかしいなあ……」

 そう口にしながら出てきたのは、一人の人間の女だった。

 不味い、人間だ。きっと自分のことを目にしたら騒ぐだろう。
 そう判断したダークライは、すっかり地面を覆っている夜の闇に咄嗟に潜り込もうとする。
 しかし体の半分程を影に溶け込ませたところで、ダークライの体はぴたりと動きを止めてしまった。


 何故なら、間近で見たその人間の瞼が、閉じられていたのだ。

 人間はどうやら、あの一枚だけ干されているタオルを取りに来たらしい。ダークライの横を通るとまず背の低い木へとゆっくり近付いて、そこから張られたロープを伝ってゆく。そうしてタオルが手に触れると、ほっとした様子でそれを手に取った。

 そして。

「……誰?」

 信じられないことにダークライの方へと顔を向けて、小さな声でそう言ったのだ。

 目を閉じているというのに、まさか見えるのだろうか?ダークライは内心ひやりとしながら、訝しげに人間のことを見つめた。

「気のせいかな……」

 人間は不思議そうに首を傾げると、タオルを不安そうにぎゅうと抱き締めた。それから再びロープを伝い、背の低い木へと向かう。

 その様子を観察してから完全に地面に身を潜めたダークライは、人間へ背を向けると立ち去ろうとした。


 しかしそれができなかったのは、後ろから小さな悲鳴が聞こえたからだ。思わず何事かと顔だけを出して振り返ってしまう。

 見ると、どうやら人間の服の裾が背の低い木の棘に引っ掛かってしまっているようだ。人間が困った様子で服の裾を掴み、刺から外そうと四苦八苦している。


 ダークライは人間が好きでも嫌いでもなかった。ただ姿を目にする度に怯えられ、騒がれ、そして疎まれるのが面倒だった。
 そのため自ら進んで関わろうとも思わなかったし、眼の前の人間が困っていようと関係のない話だ。


 しかし下唇を噛み締めてどうにかしようとしている人間のその姿を見ていたダークライは、気が付けば彼女の元へと近寄っていた。
 人間の隣にダークライが姿を現すと、僅かに風が舞い上がる。

「……なっ、何!?誰かいるの?誰?」

 突然現れた「誰か」の存在に、人間はひどく驚いたようだった。慌てふためく彼女に、ダークライは静かに告げる。

「動くな」

 ダークライの声に、人間の肩が分かりやすい程に跳ねる。

「……木の棘が引っ掛かってしまっているのだろう。動くと服が駄目になってしまう」

 ダークライの静かな声が、薄暗い夜の空気を震わせた。それを聞いた人間は、どうしようか迷う素振りを見せてから大人しく動くのを止める。その隙にダークライは木の棘に引っ掛かってしまった裾を手早く外してやった。

「もう大丈夫だ」

 服の裾が引っ張られる感覚がなくなったことを確かめるように、人間は裾を軽く持つ。そして安心したようにほう、と息を吐くとダークライへと向き直った。

「……あの、言葉を話せるみたいだけれど、ポケモン……だよね?何ていうポケモンかは分からないけれど、どうもありがとう」

 人間は丁寧にお辞儀をすると、先程よりも幾分緊張の解けた顔で笑った。
 それを見たダークライは、思わず助けてしまった訳だがまさか人間に礼を言われるとは、と苦笑する。そんなダークライの様子に瞼を閉じている彼女が気が付くはずもなく、もう一度ありがとうと口にした。

 「ええと、私は。もしよければ、あなたの名前を……」
 
 と名乗った彼女が聞いてもいい?と続けようとした時だった。どこからか微かに足音が聞こえたのだ。足音を耳にしたダークライの体が、あっという間に闇に溶けるように消える。


 そうしてダークライが姿を消してから姿を現したのは、一匹のコリンクを連れた人間だった。コリンクの放つ電気が闇を照らしているのが、疎らに生えた木々の間から見える。
 コリンクを連れた人間はの姿を目にすると、彼女の名を呼んだ。その声に、が声のする方へと顔を向ける。

「近くまで来たからさ、ついでに寄っていこうと思って」

 の元までやって来てそう笑った人間は、どうやら彼女の友人のようだった。放電を止めたコリンクが二人の周りを跳ねまわっている。影に溶け込んだダークライに、の友人もコリンクも気が付いていないようだ。

「わあ。来てくれてありがとう!」
「ご飯まだだよね?よかったらさ、私が作るから一緒に食べようよ」

 友人が手に持っていたスーパーのビニールの袋を揺らして音を立てると、ありがとう、との顔が綻ぶ。友人は笑顔で頷くと、不意に不思議そうな表情を浮かべた。

「それにしても。外で何をしてたの?」

 友人の言葉にははっとした様子を見せると、少し悩む素振りを見せてから口を開いた。

「いや……、それが、洗濯したはずのタオルが一枚足りないことに気が付いて外に出たのだけど」

 が手にしていたタオルを握り締める。

「そうしたら木の刺に服の裾が引っかかっちゃって。困っていたら、ポケモンが助けてくれたの」
「ポケモンが?……私が来た時には姿は見えなかったなあ」

 それを聞いては少し残念そうに肩を落とした。

「そっか……。どんなポケモンだったんだろう。私が慌てて動こうとしたら、動くな、って言って木の棘を外してくれたんだよ」

 友人の目が驚いたように丸くなる。それから喋ったの?との言葉を確認するように尋ねた。

「私もびっくりしたよ。……またあのポケモンに逢いたいなあ。きっと優しいポケモンだと思うの」

 が穏やかに笑うと、どんなポケモンだったんだろうね、と友人も釣られたように笑った。するとその友人の足を、コリンクがかりかりと前足で引っ掻く。


「コリンク、お腹が空いたみたい」

 友人の言葉にが「それじゃあ家に入ろう」と言うと、二人と一匹は玄関の扉に向かう。その後姿を、ダークライはぼんやりと見送っていた。扉が開き、二人と一匹が家の中に姿を消すと辺りはまた静けさに包まれる。



 ダークライは影の中から地面の上へと姿を現すと、そのまま空へ向かって浮かび上がった。
 月の無い、星影さやかな新月の夜。こんな新月の夜には心が躍るのだが、今日はやたらと心がざわめくような錯覚を覚える。

 “きっと優しいポケモンなんだよ”

 と名乗った人間が口にしたその言葉に、ダークライは呆れたように一人笑った。

 優しいポケモンだと?まさか。優しいポケモンどころか、悪夢を見せると恐れられているポケモンだというのに。このことを知ったらあのという人間も驚くだろう。そしてきっと他の人間と同じように驚いて怯えるのだ。

 そこまで考えて、ダークライは眼を閉じた。少しだけ冷たい風が、夜と同じ色の頬をするりと撫でていく。

 しんげつ島に戻ろう。そう決めたダークライの体は、あっという間に夜の闇に溶けていった。


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