はじまり、はじまり

 とある街の外れに広がる深い森の奥。そのずうっと奥には一軒の屋敷が建っていた。
 いつからそこにあるのか分からないその場所に人が住んでいる気配は一切なく、錆びついてところどころ傾いた柵に囲まれている様子は、まるで外の世界から隔離されているかのようだ。
 広い庭は草木が荒れ放題で、木々の葉の隙間から眩しい太陽の光が差し込もうとも、暗い影の方がその存在を強く主張していた。

 傾いた柵の外側、屋敷を正面から見上げて一人の女――は立っていた。
 傍らに置かれた大きなスーツケースと、その上に置かれたボストンバッグは真新しい。全体的に鬱屈しているこの場所で、彼女の周りだけが唯一そうではなかった。

「うへぇ。ここかあ……」

 見るからに「何かいる」と思わせるようなおどろおどろしい雰囲気に、溜息を吐いたの眉間にしわが寄る。生温い風がぶわっと吹いて、彼女の髪や頬を撫でていった。
 気圧されて暫くの間立ち尽くしていただが、「このままこうしていても仕方ない」と意を決すると、柵に取り付けられている鍵のかかっていない鉄の扉を押した。

 扉が軋みながら開くのに合わせて、彼女を歓迎するかのように木々の葉がざわめく。
 は背筋をぶるりと震わせると、不安を振り払うようにスーツケースの持ち手を握りしめた。スーツケースとその上に乗せたボストンバッグの重みにふらつきながらも、屋敷の門をくぐる。
 そうして辺りを見回しながら屋敷の玄関の扉の前までやって来ると、はボストンバッグのポケットから鍵の束を取り出した。一つの金属の輪に新しい鍵から古い鍵、様々な鍵がたくさんぶら下がっているものだ。

 はその中から極めて新しい鍵を選ぶと、扉の鍵穴に差し込んで捻った。金属の取っ手に手をかけて引くと、両開きの扉が錆び付いた重たい音を立てながら開く。

 扉が開くと同時に、の目は屋敷内を満たす真っ暗な闇の中で大量の埃が舞い上がるのを捉えた。頼りない太陽の光に照らされて、埃がキラキラと光っている。
 何度か咳き込んだあと、はスーツケースの取っ手を再度掴んで、ガラガラと車輪の音を響かせながら屋敷の中へと入っていった。



 元々この屋敷は、とある老夫婦が管理をしていたものだ。しかしその老夫婦が体調を崩して入院をしてしまって以来、屋敷は放置されてしまっていた。

 老夫婦が管理をしていた頃は柵も傾いていなかったし、外の広い庭も手入れが施されていた。手入れの行き届いた庭は四季折々の美しい花が咲き乱れて、屋敷はもっと眩しい光とあたたかな笑い声に満ちていた。
 けれど、手入れもされることが無くなった今、庭は荒れて屋敷も古び、寂れていくばかりだった。そんな場所は野生ポケモンの恰好の棲み処となり、屋敷はますます荒れていく。

 このままでは困る。さてどうしよう、となった訳だが、老夫婦はもう歳で、体調も万全では無かった。処分をするにしても、この大きな建物では費用や手間もかかる。
 それならば、いっそ誰かが住んで管理をすればいいのでは? と、老夫婦の親戚の誰かが言った。私は嫌よ、あんな辺鄙なところ。と、また別の誰かが言った。
 親戚はたくさんいるが、「じゃあ自分が」と名乗り出るものはいなかった。
 結局、親戚の間で「森の奥の不気味な屋敷を管理する」役目を散々押し付けあい、巡りに巡って、とても遠い親戚であるに白羽の矢が立ったのだった。

 そんな辺鄙な場所の荒れた屋敷を管理するなんて、とも最初は断った。
 しかし他の親戚の、それも大勢の人間に押し切られ、半ば強引にこの屋敷を管理する役目が決まってしまったのだ。
 多勢に無勢。この決定は覆りそうにないと、は仕方なく、本当に仕方なく、今日から管理をするためにこの屋敷へやってきたのだった。



「えーっと……電気は、っと……」

 開けっ放しにした玄関の扉から差し込む太陽の光以外は光源のない薄暗い闇の中、壁伝いに明かりのスイッチを手探りで探す。陽の光を遮っているカーテンを開けてしまえば良いのだが、まだ屋敷の中を把握していないのでどこに何があるのか分からず、それは出来そうに無かった。

 暫くの間壁を探っていると、どうやらいくつかのスイッチらしきものに指先が触れたので、はそれらをまとめて押した。数秒の間を置いて、高い天井から下がるシャンデリアや、壁に並ぶ幾つものライトに明かりが灯る。

「うわっ、ま、眩しい……」

 すっかり暗闇に慣れていた目が眩む。咄嗟に目を瞑ったは、ゆっくり時間をかけて瞼を開けた。
 そんな彼女の目に飛び込んできたのは。

「え……!?」

 何故か目の前にいた、と同じく驚いた顔をしたゴースだった。

 驚きすぎて声にならない、とはこのことだろう。大きく開けたの口からは、ヒュッと息が漏れた。
 彼女の意識はそこでぷつりと途絶えることとなる。

 この時気を失ったは、まさかこれからたくさんの出来事が待ち受けているとは思いもしなかったのだった。


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