額の汗を拭うのも忘れて、息も途切れ途切れには走っていた。
太陽はもうすぐ地平線の向こうに沈んでしまうだろう。オレンジ色の太陽が燃える空とは反対の、既に夜の色に染まった空にはいくつかの星が輝いている。
穏やかな風が吹く夕暮れの時間だった。
大切なパートナーであるニドラン♂の姿が見えないことにが気がついたのは、少し前のことだった。
夕飯の支度をしている途中、ニドラン♂がいるであろうソファに向かって「もうすぐごはんだからね」と声を掛けたら何も反応がなかったのだ。
いつもだったら途端にソファの背もたれの向こうから顔を覗かせるのに。ぴんと立った大きな耳、キラキラと輝く眼差しが見えないことに首を傾げたは、ソファを覗いて目をまるくした。
ソファの上に紫色の姿はなく、そこにあったのは彼のお気に入りの、ちょっとくたびれたモンスターボールのクッションだけだったのだ。
一体いつからいなくなっていたんだろう? 慌てて家の中を探し回ったは、しっかり鍵をかけていたはずの玄関の扉が少しだけ開いていることに気がついた。さあっと血の気が引いていく。
もしかして外に出てしまったんじゃ――そう思ったは、勢いよく外へ飛び出した。
家から少し行くと石畳の敷かれた道があり、その先には海が広がっている。
砂浜はニドラン♂のお気に入りの散歩コースだ。彼が外へ出たとしたら、きっとそこにいるはず。
そう判断したはそこへ向かって走り、石畳の敷かれた道も走り続け、それが柔らかな砂の混じる道へと変わった辺りでようやく足を止めた。潮騒がの耳を打つ。
必死に走り続けたのでわき腹が痛んだ。深い呼吸を繰り返して、汗を拭ったは歩き出す。砂浜はもうすぐそこだった。
「ニドランー! どこにいるの!?」
やわらかい砂を踏みしめながら、は何度も声を張り上げる。
しかしの呼びかけに返答はなく、辺りに響くのはざんざんという波の音だけだった。
暫し立ち尽くしたあと。は仕方なく、いつも散歩をする時と同じように砂浜を歩き始めた。
岩の上で野生のクラブがシャボン玉を飛ばすようにぷくぷくと泡を吐いている。
いくつもの泡がその内側に夕陽を閉じ込めてキラキラと輝きながら漂う光景はとても幻想的だった。それでも心が躍らないのは、大切なパートナーが隣にいないからだ。
はほとんど泣きそうになりながら、もう一度ニドランの名前を呼んだ。
視界の端で何かが小さく赤く瞬いたのはその時だった。
続けて、聞き慣れた「きゅう」という声がしたので、は声がした方――数メートル先の緑が生い茂るところへ走りだした。
「ニドラン!」
夕陽に照らされて、よく知った大きなふたつの耳がぴくりと動くのが見えた。
海浜植物の緑から、ずっと探していた紫色の体が跳ねるように飛び出す。はその小さな体をしっかりと抱き留めた。
「ああ、よかった。本当によかった……」
力が抜けたように砂の上に座る。服が汚れてしまうだとか、そういうことはどうでもよかった。ただ、大切なパートナーの体をぎゅうっと強く抱きしめる。
そうして大切なパートナーの無事を嚙み締めたあと、はむっとした顔で口を開いた。
「……勝手に家を出たら駄目だって言ってるよね?」
の声色が怒気を帯びていることに気がついたのか、ニドラン♂の耳がぺたりと伏せられる。
本当に心配したんだから。が頬をつつくと、ニドラン♂はくすぐったそうに赤色の目を細めてから小さな声で鳴いた。
「どうして勝手に外に出たの?」
いつもは聞き分けがよく、おとなしい性格のニドラン♂は手を焼くようなことはしない。だからこそはニドラン♂が勝手にいなくなってしまって余計に焦ったのだった。
ニドラン♂は身を捩って腕の拘束から抜け出すと、先ほど飛び出した辺り――潮風にそよぐ海浜植物の辺りをごそごそと漁りだした。
その様子をが見守っていると、やがてニドラン♂は何かをその口にくわえて戻ってきた。
一体何を持ってきたのやら。が手のひらを差し出すと、そこに赤くきらめくものが落とされる。
「これ……」
先ほど視界の端で小さく赤く瞬いたもの。ニドラン♂が勝手に海に出てきてまで探したもの。それは、キラキラと赤く光る美しい宝石のかけら――ほしのかけらだった。
はハッと息を飲んだ。今日のお昼、たまたま見ていたテレビ番組にほしのかけらが映っていたことを思い出したからだ。
ポケモンとお宝を探す。そんなまったりした内容の番組で、ガーディやイワンコが様々な色の何かのかけらやたいようの石、それにほしのかけらといったたくさんのお宝を見つける様子を見て、は何の気なしに「ほしのかけらだって。初めて見たけれど綺麗だね」と呟いたのだ。
その時ニドラン♂はの膝の上でまるくなっていて、彼女の言葉に大きな耳を何度か動かしただけだった。
そういえば、とは思う。
昼ごはんを済ませたあと、散歩に行くまでの時間ニドラン♂は庭で何かを探すようにウロウロしていて、草の中に鼻を突っ込んだり、土を掘ったりしていた。
散歩でこの砂浜へ来た時も、いつもは元気よく走っていくのに今日はやけにゆっくりと歩いていた。
何かあったのかと聞いてもニドラン♂は首を振るばかりでは不思議に思っていたのだが、その理由が今やっと分かったのだ。
「私にこれを渡したかったの?」
手のひらの上でそっと転がすと、ほしのかけらは夕陽よりも真っ赤にきらめいた。
その名前通り、本当に星みたい。そんなことを思いながらがほしのかけらを見つめていると、ニドラン♂は誇らしそうに胸を張った。
「ありがとう。すごく嬉しい」
自分の何気ない呟きを聞いていたこと。そしてそのために行動してくれたこと。自分がニドラン♂のことを大切に思っているように、ニドラン♂もまた自分のことを大切に思ってくれていること。
それらがどうしようもなく嬉しくて、胸を満たすあたたかさには微笑んだ。
「……でも、今度からは勝手にいなくならないでね。本当に心配したんだから」
ニドラン♂がしっかりと頷いたのを確認して、は「そろそろ帰ろうか」と立ち上がる。が砂を払うその横で、ニドラン♂も紫色の体をふるりと震わせた。
どちらからともなく歩き出す。いつの間にか太陽が沈んだ空はすっかり夜の色に染まっていた。夜空に散りばめられた星の瞬きを眺めながらは口元をゆるめる。
この素敵な宝物のお礼に私は何を贈ろう。せっかくだから、とっておきの何かを――。
そんなことを考えながら、は夜空の星たちよりもずっと眩い一等星をそうっと握りしめた。
(星を拾う/加筆修正/20240108)
太陽はもうすぐ地平線の向こうに沈んでしまうだろう。オレンジ色の太陽が燃える空とは反対の、既に夜の色に染まった空にはいくつかの星が輝いている。
穏やかな風が吹く夕暮れの時間だった。
大切なパートナーであるニドラン♂の姿が見えないことにが気がついたのは、少し前のことだった。
夕飯の支度をしている途中、ニドラン♂がいるであろうソファに向かって「もうすぐごはんだからね」と声を掛けたら何も反応がなかったのだ。
いつもだったら途端にソファの背もたれの向こうから顔を覗かせるのに。ぴんと立った大きな耳、キラキラと輝く眼差しが見えないことに首を傾げたは、ソファを覗いて目をまるくした。
ソファの上に紫色の姿はなく、そこにあったのは彼のお気に入りの、ちょっとくたびれたモンスターボールのクッションだけだったのだ。
一体いつからいなくなっていたんだろう? 慌てて家の中を探し回ったは、しっかり鍵をかけていたはずの玄関の扉が少しだけ開いていることに気がついた。さあっと血の気が引いていく。
もしかして外に出てしまったんじゃ――そう思ったは、勢いよく外へ飛び出した。
家から少し行くと石畳の敷かれた道があり、その先には海が広がっている。
砂浜はニドラン♂のお気に入りの散歩コースだ。彼が外へ出たとしたら、きっとそこにいるはず。
そう判断したはそこへ向かって走り、石畳の敷かれた道も走り続け、それが柔らかな砂の混じる道へと変わった辺りでようやく足を止めた。潮騒がの耳を打つ。
必死に走り続けたのでわき腹が痛んだ。深い呼吸を繰り返して、汗を拭ったは歩き出す。砂浜はもうすぐそこだった。
「ニドランー! どこにいるの!?」
やわらかい砂を踏みしめながら、は何度も声を張り上げる。
しかしの呼びかけに返答はなく、辺りに響くのはざんざんという波の音だけだった。
暫し立ち尽くしたあと。は仕方なく、いつも散歩をする時と同じように砂浜を歩き始めた。
岩の上で野生のクラブがシャボン玉を飛ばすようにぷくぷくと泡を吐いている。
いくつもの泡がその内側に夕陽を閉じ込めてキラキラと輝きながら漂う光景はとても幻想的だった。それでも心が躍らないのは、大切なパートナーが隣にいないからだ。
はほとんど泣きそうになりながら、もう一度ニドランの名前を呼んだ。
視界の端で何かが小さく赤く瞬いたのはその時だった。
続けて、聞き慣れた「きゅう」という声がしたので、は声がした方――数メートル先の緑が生い茂るところへ走りだした。
「ニドラン!」
夕陽に照らされて、よく知った大きなふたつの耳がぴくりと動くのが見えた。
海浜植物の緑から、ずっと探していた紫色の体が跳ねるように飛び出す。はその小さな体をしっかりと抱き留めた。
「ああ、よかった。本当によかった……」
力が抜けたように砂の上に座る。服が汚れてしまうだとか、そういうことはどうでもよかった。ただ、大切なパートナーの体をぎゅうっと強く抱きしめる。
そうして大切なパートナーの無事を嚙み締めたあと、はむっとした顔で口を開いた。
「……勝手に家を出たら駄目だって言ってるよね?」
の声色が怒気を帯びていることに気がついたのか、ニドラン♂の耳がぺたりと伏せられる。
本当に心配したんだから。が頬をつつくと、ニドラン♂はくすぐったそうに赤色の目を細めてから小さな声で鳴いた。
「どうして勝手に外に出たの?」
いつもは聞き分けがよく、おとなしい性格のニドラン♂は手を焼くようなことはしない。だからこそはニドラン♂が勝手にいなくなってしまって余計に焦ったのだった。
ニドラン♂は身を捩って腕の拘束から抜け出すと、先ほど飛び出した辺り――潮風にそよぐ海浜植物の辺りをごそごそと漁りだした。
その様子をが見守っていると、やがてニドラン♂は何かをその口にくわえて戻ってきた。
一体何を持ってきたのやら。が手のひらを差し出すと、そこに赤くきらめくものが落とされる。
「これ……」
先ほど視界の端で小さく赤く瞬いたもの。ニドラン♂が勝手に海に出てきてまで探したもの。それは、キラキラと赤く光る美しい宝石のかけら――ほしのかけらだった。
はハッと息を飲んだ。今日のお昼、たまたま見ていたテレビ番組にほしのかけらが映っていたことを思い出したからだ。
ポケモンとお宝を探す。そんなまったりした内容の番組で、ガーディやイワンコが様々な色の何かのかけらやたいようの石、それにほしのかけらといったたくさんのお宝を見つける様子を見て、は何の気なしに「ほしのかけらだって。初めて見たけれど綺麗だね」と呟いたのだ。
その時ニドラン♂はの膝の上でまるくなっていて、彼女の言葉に大きな耳を何度か動かしただけだった。
そういえば、とは思う。
昼ごはんを済ませたあと、散歩に行くまでの時間ニドラン♂は庭で何かを探すようにウロウロしていて、草の中に鼻を突っ込んだり、土を掘ったりしていた。
散歩でこの砂浜へ来た時も、いつもは元気よく走っていくのに今日はやけにゆっくりと歩いていた。
何かあったのかと聞いてもニドラン♂は首を振るばかりでは不思議に思っていたのだが、その理由が今やっと分かったのだ。
「私にこれを渡したかったの?」
手のひらの上でそっと転がすと、ほしのかけらは夕陽よりも真っ赤にきらめいた。
その名前通り、本当に星みたい。そんなことを思いながらがほしのかけらを見つめていると、ニドラン♂は誇らしそうに胸を張った。
「ありがとう。すごく嬉しい」
自分の何気ない呟きを聞いていたこと。そしてそのために行動してくれたこと。自分がニドラン♂のことを大切に思っているように、ニドラン♂もまた自分のことを大切に思ってくれていること。
それらがどうしようもなく嬉しくて、胸を満たすあたたかさには微笑んだ。
「……でも、今度からは勝手にいなくならないでね。本当に心配したんだから」
ニドラン♂がしっかりと頷いたのを確認して、は「そろそろ帰ろうか」と立ち上がる。が砂を払うその横で、ニドラン♂も紫色の体をふるりと震わせた。
どちらからともなく歩き出す。いつの間にか太陽が沈んだ空はすっかり夜の色に染まっていた。夜空に散りばめられた星の瞬きを眺めながらは口元をゆるめる。
この素敵な宝物のお礼に私は何を贈ろう。せっかくだから、とっておきの何かを――。
そんなことを考えながら、は夜空の星たちよりもずっと眩い一等星をそうっと握りしめた。
(星を拾う/加筆修正/20240108)