Hanada
「……タマミツネと喧嘩でもしたのか?」

 夕方の、ルルシオンの武具屋兼加工屋の前。カイルは今しがた手入れが終わった愛用の武器、なぐるやの遠弓の真弦の弦の張り具合を確かめるように指先で弾きながらそう口にした。弾かれた弦が、ピンッと軽やかな音を立てる。

「…………、してない、けど」

 カイルの後ろにて、彼のオトモであるツキノに前足の肉球を触らせてもらっていた私は、店主に礼を言って代金を支払う背中を見つめながら言う。自分の背丈よりも大きな弓を担いで振り返ったカイルは、私の返答に訝しげな表情を浮かべた。

「今の間は何だよ」

 その言葉と共に、モンスターと対峙した時のような、一挙一動を見逃すまいとする真っ直ぐな視線を向けられた。私に前足を握られたままのツキノもこちらを見ている。その顔には「前足の肉球を触らせてほしい」と必死に頼み込んだ時に見せた困惑の表情とはまた違う、真剣な表情が浮かんでいた。
 二人が心から心配をしてくれているのだということは分かっている。けれど向けられた二つの視線はどうにも居心地が悪くて、ツキノの前足を解放した私は目を逸らした。

「……本当に、喧嘩はしてないの。ただ、理由は分からないけれどタマミツネの機嫌が悪いってだけで……」
 
 ゆっくり歩きだしながら言うと、隣に並んだカイルは「ふうん」と相槌を打った。

「……心当たりはないのかよ」
「ないよ。全く」

 カイルの問い掛けに、すかさずそう返す。すると私たちを追い越して数歩先を歩いていたツキノが振り返り、「それじゃあ、どうしてかしらね」と不思議そうに呟いた。タマミツネの機嫌が悪い理由は本当に、見当もつかない。困り果てた私が曖昧に笑って肩を竦めると、カイルが口を開いた。

「タマミツネだって、訳もなく機嫌が悪くなったりはしないだろ」

 カイルが歩く度に、彼のベルトから提げられたランタン型の虫かごが揺れる。ユラユラと揺れる、導蟲が放つ緑色の光をぼんやりと見つめながら私は頷いた。

「……うん。それは私もそう思う」

 だからきっと、私自身が気がつかないところでタマミツネの機嫌を損ねるような何かをしてしまったのだろう。
 そんなやり取りをしている間に、雑貨屋などが立ち並ぶ商業区を抜けて中央の噴水広場に着いた。

「……それじゃあ、これで。二人とも今日はありがとう」
「ああ。また何かあれば、声をかけてもらっていい。手が空いていれば、俺もツキノも付き合ってやれる」

 早く解決するといいわね。と笑ってくれたツキノと、その言葉に頷いたカイルに手を振って分かれたあと。相棒が休んでいる厩舎へ向かう道すがら、私は今日のことを思い出していた。

 たくさんの人やアイルーたちの助けになりたくて、私は日々できるだけ多くのサブクエストをこなすようにしている。その中でも今日は特に大変だった。
 早朝からポモレ花園に赴いて、騒音の元であるというクルペッコ亜種を討伐し、アイルーたちの居場所を占領していたラギアクルスも討伐した。それからその合間に生物学者に頼まれたポモレ花園に棲息する希少な虫と、ちょっと太り気味なアイルーから頼まれた大量の特産マタタビの採取もこなしたのだ。

 虫と特産マタタビの採取だけなら私とタマミツネだけでもどうということはないけれど、クルペッコ亜種の討伐にラギアクルスの討伐も、となるとそうもいかない。なので、昨晩たまたまルルシオンの街の入り口でカイルとツキノに会えたのはラッキーだったなと思った。

『カイルにツキノ、こんばんは。……丁度よかった! 明日、ポモレ花園に行くんだ。もし手が空いていたら手伝ってくれない?』

 挨拶もそこそこに鞄からライダーノートを取り出した私は、間に挟んでいたサブクエストのメモの内の何枚かを見せた。「続・騒音注意報」「協力要請:海竜」「ポモレ花園の希少生物」など、私がクエストボードから書き写したメモを手に取ったカイルは内容を確認し終えると、突然の頼みにも関わらず「怪我をしてから呼ばれても面倒だからな。ハンターがいれば効率的だし……」と言って今日の同行を引き受けてくれたのである。

 そうして引き受けていたポモレ花園でのサブクエストを無事に全て終わらせたのだけど。問題は私のオトモンのタマミツネだ。何だか今日はずっと機嫌が悪いのだ。
 同行してくれたカイルに「タマミツネと喧嘩でもしたのか?」と尋ねられ、ツキノに心配そうな眼差しを向けられてしまうくらいには。
 
 ルルシオンを発つ時は、機嫌は悪くなかった。不機嫌になったのは──そう、ポモレ花園に向かう道の途中からだ。
 あの時何かしてしまったのかと思い返してみても、それらしき答えは見つからない。もしかしたら急に気が変わってしまって、ポモレ花園であれこれする気分じゃなくなったのかも、とも思った。けれど、タマミツネはサブクエストをこなすことに協力的だった。

 今日の希少生物と特産マタタビ探しも積極的に手伝ってくれた。クルペッコ亜種との戦いでも、属性的に不利なラギアクルスとの戦いだって、ぴったりと息を合わせて行動してくれた。行きも帰りもちゃんとその背に私を乗せて運んでくれた。
 だというのに、ポモレ花園に向かう道の途中からふとした瞬間に見せるひとつひとつの仕草が、タマミツネが不機嫌であるということを物語っていた。ジトッとした不満げな視線を寄越したり、牙をむき出しにして何か言いたげな表情を見せたり。普段通りのタマミツネならば、見せることのない仕草だった。
 二人に言った通り、喧嘩はしていないはずだ。でも。タマミツネが私に何か不満を抱いている、というのは確かだった。

 答えの見つからない謎に、溜め息を吐きながら厩舎へと続く石造りの階段を上がる。
 すると、厩舎の中ではなく外で丸くなっているタマミツネの姿が見えた。私の足音が耳に届いたのか、花のように鮮やかな薄紅色のヒレが二、三度ほど小さく震える。
 厩舎番のアイルーに労いの言葉をかけてから、私はタマミツネの前に屈み込んだ。

「中じゃなくて外で休んでたの?」

 私の言葉にゆっくりと首をもたげたタマミツネの水色の目には、やっぱり不機嫌そうな色が滲んでいた。少し悩んでからそっと手を伸ばすと、タマミツネは拒むことなく象牙色の額で私の手のひらを受け入れる。それに私は少しだけ安心して、美しい鱗の並びをなぞった。

「……タマミツネ。あのね」

 タマミツネの双眼が、私を真っ直ぐに見つめる。
 
「ポモレ花園に行く途中から、あなたがずっと不機嫌なのは分かっているの。でも、どうしてなのかが分からない。……私、あなたに何かした?」

 顎のラインをなぞり、頬に手を添えて額を合わせる。ほんの少しの沈黙のあと、顎を引いたタマミツネは暫し考え込むような素振りを見せ、音もなく起き上がった。そのまま静かに広場へ続く階段を降りていく。
 タマミツネの機嫌が悪いことに気がついてから、当然何度か「どうしたの」と尋ねている。けれどタマミツネは決まってジトッとした、何かを咎めるような視線を寄越すだけだった。
 私の問いかけに「ジトッとした視線を寄越す」以外の行動を見せてくれたのはこれが初めてのことで、驚いて固まっていた私は慌ててタマミツネの背中を追いかけた。


 街の西に伸びる通り──サドナ荒野に続く道の途中でタマミツネが足を止めて振り返った。そうして追いかけてくる私の姿を確認すると、少しだけ姿勢を低くする。
 背中に乗れ、ということなのだろう。太陽はとうに沈み、夜の帳も下りている。夕飯もまだだ。だけど今の私はその背中に乗るのを躊躇う理由を持ち合わせていない。タマミツネに追い付くと、鞍の持ち手をしっかりと掴んで跨がった。
 私がちゃんと鞍に跨がったことを確認したタマミツネが、体をくねらせるようにして走り出す。乾いた風が頬を撫でた。


 サドナ荒野に出ると、ルルシオンでは高い城壁に遮られて見えなかった満月が見えた。

「タマミツネ、どこに行くの」

 タマミツネは振り返らない。ただ、前を向いてどこかへ向かって走っている。幸いにも武器は担いだままだ。仮にこの辺りに棲息するガノトトスやダイミョウザザミなどと戦闘になっても何とかなるだろう。ただ、夜の闇の中では日中に比べて部位を的確に狙うことは難しくなるし、できれば誰とも遭遇しないといいけれど──そんなことを考えている内に、タマミツネは目的の場所に着いたらしい。少しずつ歩みがゆっくりしたものになり、やがてその足は止まった。

 辿り着いたのは、ルルシオンの街からかなり離れた砂浜だった。
 辺りを見回し、タマミツネが警戒する素振りを見せていないことも確認して私は鞍を降りた。やわらかな砂に、防具の足先が少しだけ沈む。
 夜空と同じ色に染まった海に、白い月明かりが揺れていた。静寂の中、寄せては返す波のざんざんという音とタマミツネの息遣いだけが響いている。

「タマミツネ」

 ここへ私を連れてきたこと。ポモレ花園に向かう道の途中からずっと彼が不機嫌だったこと。それらの答えを知るべく、名前を呼んで振り返る。
 月の光に照らされた鼻先が私の腹部を思い切りどついたのはその時だった。

「いたぁっ!?」

 防具の上からといえどなかなかの衝撃で、突然のことに驚いて私は砂の上に尻餅をついた。ぼふ、と砂が舞い上がる。その衝撃で鞄からはライダーノートや回復薬、砥石に閃光玉なんかが飛び出して、乱雑に砂の上に散らばった。
 相棒からの予想外の攻撃に驚いて目を見張ると、タマミツネはパラパラとページが捲れたライダーノートを忌々しそうに睨み付け、そして──。 

「こらこらこら! 何してるの!?」

 ノートの間に挟まれていた、明日以降片付ける予定だったサブクエストのメモたちを尻尾で薙ぎ払ったのだった。

 ヒュッと風を切る音と共に勢いよく舞い上がる何枚ものメモ。あまりの勢いに、ライダーノートは砂浜の上を転がっていった。
 タマミツネは紙吹雪のようにヒラヒラと舞うメモを眺めると、それらにふう、と泡を吹き掛ける。あっという間に泡だらけになったメモは風に流されるようにして、少し離れた波打ち際に落ちていった。もし急いで回収したとしても、ああも泡にまみれて海水に浸ってしまっては文字も滲んでメモとしての役割を果たせないだろう。
 呆然としている私に向かって、タマミツネは口の端を引き上げニタりと笑った。

「な、な、何を……」

 防具の砂を払うのも忘れて立ち上がる。そんな私をよそに、タマミツネはざまあみろ、とでも言うかのように鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「ここまでするほど……」

 嫌だったのなら、そう言おうとして私は言葉を飲み込んだ。
 だって、タマミツネは嫌なことは嫌だと、ちゃんと態度で示してくれる。
 モンスターを討伐したり、鉱石や虫を採取したり。私とサブクエストをこなすことが本当に嫌だったら、きっと丸くなって尻尾を不機嫌そうにしならせるだけで微動だにしないはずなのだ。ルルシオンの街を出るどころか、厩舎の階段下まで連れていくことだって難しいだろう。それは長い付き合いの中で分かっていることだった。
 今日のポモレ花園でだって、タマミツネは不機嫌であっても、嫌がる素振りは見せずにちゃんと私の手伝いをしてくれた。
 それなら、彼が言いたいことは、きっと。

「……そっか。心配、してくれたんだよね……?」

 そっぽを向いていたタマミツネが、緩慢な動作でこちらを見遣る。

 ここまでタマミツネにされて、私はようやく彼が不機嫌になっていた理由を見つけることができた。
 数日前、私は体調を崩したのだ。風邪を引いたとかでもなく、単なる寝不足によるもの。その時にはちゃんと睡眠を摂って、翌日も疲労を感じなかったからもう大丈夫だと思った。
 けれど今日のポモレ花園に向かう道中で、カイルに言われたのだ。「目の下に隈ができてるぞ」と。カイルの言葉に私の顔を見たツキノが「しっかり休んでる?」と首を傾げ、それに対して私はこう言ったのだ。

「大丈夫、ちゃんと休んでるよ」

 きっとタマミツネは、それが気に食わなかったのだ。数日前に寝不足で体調を崩した私がそう答えたから。そして明日もまた、たくさんの頼まれ事を片付けようとしていることに腹が立ったのだろう。
 泡だらけになって、海水に浸って、もう何の役割も果たしていない紙切れと、砂にまみれたライダーノート。それから散らばったままにしていた道具を拾い集め終えたところで私は口を開く。

「……そう、そうだね。たまにはちゃんと休まないと駄目だよね」

 私の言葉を静かに聞いていたタマミツネが、牙をむき出しにして唸った。その瞳には、まだほんの少しだけ不満そうな色が滲んでいる。

「心配かけて、ごめんね」

 月明かりに照らされて淡く煌めく象牙色の鱗と薄紅色のヒレ。その美しさに導かれるようにタマミツネの首に抱きついた。ややあって、牙をむき出しにするのを止めたタマミツネが僅かに私へとすり寄る。海の上を渡る夜風に曝された鱗はひやりと冷たいはずなのに、どうしてかとても温かく感じた。

 暫くはタマミツネとのんびり過ごすことにしよう。明日もここへ来て、魚釣りをしてもいい。ああ、それに──タマミツネだけじゃない。私のことを心配してくれていた大切な友人二人にも謝って、お礼を伝えないといけない。心配かけてごめん。それと、タマミツネとは仲直りできたよありがとうって。
 そんなことを考えながら、私はもう一度タマミツネのことを強く抱き締めた。

(薄紅色の導き/20210904)