Hanada
 アー、あー。喉の調子は至って良好。頭部を飾る自慢の空色の毛並みもツヤ、手触り共に問題なし。
 それなら真珠と星のかたちのアクセサリーは? 汚れひとつなくピカピカ。
 ムード作りは? こちらも完璧。クラブたちが生み出したシャボン玉のような泡がそこら中に漂って、傾きつつある太陽の光で浜辺はキラキラと幻想的に輝いている。
 キレイハナとオドリドリたちのダンス部隊も、コロトックが奏でるやさしい音楽に合わせて踊っている。あとは彼女が来るのを待つだけだ。
 とある海の砂浜の、ほんの少し高い――オドリドリと同じ高さくらいの岩の上。そこで、アシレーヌは今日もひとりの人間がこのステージを訪れる時を待っている。

 落ち着かない様子でアシレーヌが辺りを見回していると、近くの木の枝に留まってコロトックの奏でる音楽に耳を澄ませていたケララッパたちが、何かに気がついた様子で嘴を反り返らせた。一呼吸置いた後、普段は騒がしい彼らにしては控えめな鳴き声がステージの音楽に乗って響く。
 この砂浜へ、アシレーヌが待ち続けていた人間――が近づいていることを知らせるものだ。
 ケララッパたちは夕方のこの時間になると、ここへ続く道を木の上から見張り、彼女の訪れをアシレーヌへ伝えてくれるのである。知らせを耳にしたアシレーヌの真っ白な背筋が、自然にピンと伸びた。
 そのまま息をひそめて待つこと、数十秒。やがて、ステージを満たすやさしい音色にやわらかな砂を踏みしめる足音が混じるようになった。
 サクサクという音に合わせて、アシレーヌの胸も少しずつ高鳴っていく。それから更に少しすれば、彼女の耳へ待ちわびた声が届いた。

「こんにちは、アシレーヌ」

 もうすぐ日が沈みそうだから、こんばんは、かなあ。そう言いながら海へ視線を投げかけて、ややあって振り返ったがやわらかな笑みを浮かべた。
 くうくうと喉を鳴らしたアシレーヌも、釣られて微笑んだ。アクアマリンのようなきらめきを宿す目に、今日も来てくれて、嬉しい。そんな色を滲ませて。
 アシレーヌの目の前までやって来たは、浜辺で暮らすポケモンたちが作り上げた幻想的な景色を見回して、そうっと口を開いた。

「今日もここは素敵だね。毎日ここへ来たくなっちゃう」

 ――是非、そうしてくれたらいいのだけど。
 アシレーヌは、から少し離れたところで踊るキレイハナとオドリドリが「今日も素敵だって」と話しながら嬉しそうにターンを決めたのを眺めつつ、そんなことを思った。
 毎日ここへ来たくなる。そう言いながらもがそうしないのは、彼女にも仕事などの都合があるから。それは分かっているけれど、毎日会えたら嬉しいのに。ツンと口を尖らせたアシレーヌのヒレを、そんな思いを知る由もないがやさしくきゅっと握る。

「……ねえ、アシレーヌ。今日はどんな歌を聞かせてくれるの?」
 
 の目が、待ちきれないといった様子でキラキラと輝く。期待に満ちた眼差しを送られたアシレーヌは、砂浜で時々見かけることがある「ほしのかけら」を思い浮かべた。それからううんと悩む素振りを見せて、こてりと首を傾げる。その仕草には、リクエストがあればどうぞ。そんな意味が込められている。

「今日も私が決めていいの?」

 ほしのかけらを思わせる目が、二、三度ほど瞬いた。首を傾げる、というたったそれだけの音のないことばでも、長い付き合いである彼女にはアシレーヌの言いたいことがちゃあんと伝わっているのだ。
 いつも私のリクエストを聞いてもらってる気がするなあ。そう続けたに、アシレーヌはクスクスと笑ってから頷いた。

「うーん。それじゃあ、今日は明るい歌をお願いしようかな」



 アシレーヌと、ふたりの出会いは随分と前に遡る。
 今でこそ、この砂浜は多くのポケモンたちの憩いの場となっているものの、ふたりが出会った時はもっと寂れていた。それくらい、ずうっと前のこと。

 ふたりが初めて出会った日。アシレーヌは陽が傾きつつある寂れた砂浜で、長いこと歌の練習をしていた。
 ソリストポケモン、アシレーヌ。歌姫の異名を持つこの種族は歌を得意とし、狩りや戦いの場においても歌で水のバルーンを自在に操って戦う特徴を持つ。
 しかし、彼女はバルーンを思い描いた通りに操ることができなかった。バルーンは思った方へ飛ばないし、爆ぜるはずではないタイミングで爆ぜてしまう。
 そう、バルーンを操るための歌が、どうしても上手く歌えなかったのだ。

 ――これ以上練習しても、喉を傷めてしまいそう。今日はここまでにしようかしら。
 そんなことを考えながら溜息を吐いて、すっきりしない気持ちを振り払うように首を振ったアシレーヌはぎょっとした。
 すぐ近くで横たわる流木に、いつの間にか見知らぬ人間が座っていたのだ。歌の練習に熱中するあまり、アシレーヌは観客の存在に今の今まで気がつかなかったのである。

 まさか、聞かれてた? 歌の練習をしているところを誰にも見られたくなかったアシレーヌは顔をしかめた。口を薄く開き、牙を見せる。威力を落としたハイパーボイスでも放って、追い払ってやろうと思ったのだ。
 ところが、アシレーヌはポカンと口を開けたまま、ゴルダックのかなしばりでも受けたかのように固まって動けなくなってしまった。
 何故なら、人間が何度か瞬きをしたと思ったら、ポロポロと涙を流したのだ。
 まだ威嚇してないわよ。それなのにどうして泣くの。……訳が分からない。アシレーヌが訝し気に見つめると、椅子代わりにしていた流木から立ち上がった人間がぐしぐしと涙を拭った。

「……あの」

 打ち寄せる波音にさらわれてしまいそうな、小さな声がアシレーヌの耳に届く。
 威嚇をする気をすっかり削がれてしまったアシレーヌは、口を閉じると言葉の続きを促すように見知らぬ人間のことを見据えた。一歩踏み出した人間が、自身の胸元でぎゅっと手を握る。

「すごく、すごく素敵な歌を聞かせてくれてありがとう」

 水のバルーンを思うように操れもしないわたしの歌が、素敵? そんなわけ、ないのに。アシレーヌは思わず眉間にしわを寄せた。
 いくら努力しても練習の成果が見えない日々に、彼女の心は褒め言葉を素直に受け取れないほどにささくれ立ってしまっていたのだ。
 そんなアシレーヌの様子に人間は気がつかなかったようで、そろそろとアシレーヌの目の前へやって来たかと思えば肩から提げた鞄を漁り、「これはお礼」と言いながら白いヒレの傍にひとつのきのみを置いた。つややかな緑色のラムのみだ。

「……今はお礼になりそうなものがこれしかなくって。でも、ポケモンの体にいい成分がたくさん詰まってるきのみだから、もしよければ」

 人間はそう言うと、丁寧に頭を下げてから去っていった。
 一体、何だったの? アシレーヌは人間が去っていった方を暫く見つめていたが、やがて思い出したようにラムのみへ視線を落とした。
 野生に生きる身としては、見知らぬ人間から差し出されたきのみを何の疑いもなく口にすることには抵抗がある。しかし、だからといってそれを捨てる気にもなれないのはどうしてだろう。アシレーヌはううんと首を捻る。
 散々悩んだ末に、アシレーヌはヒレでラムのみを掬いあげると恐る恐る口を開いた。硬い表皮を噛み砕くと、酸味がなくて食べやすい味が口に広がっていく。
 人間の目から落ちた涙のきらめきと、「すごく、すごく素敵な歌を聞かせてくれてありがとう」という言葉。それらを思い出しながら、アシレーヌはラムのみの欠片を飲み込んだ。


 その日から、アシレーヌはより一層歌の練習へ励むようになった。
 あんな水のバルーンを操れもしないへたくそな歌を、かつて群れの仲間たちから「いつになったら上達するんだろう」と笑われた歌を、涙を流して「素敵な歌」だと褒めた人間に聞かせてやりたくなったのだ。水のバルーンだって思うがままに操れる、「ちゃんとした素敵な歌」を。

 今まで練習が上手くいかない時は、かつての群れの仲間たちのことを思い出していた。上達しない歌を笑われた悔しさと、自身の力不足に対する怒りを練習の原動力にしていたのだ。
 けれどあの人間にあった日から、アシレーヌは練習に行き詰まると彼女のことを思い出すようにした。
 ――あの人間も、よくあんな歌を褒められたわね。それじゃあ、本当に「素敵な歌」を聞かせたら、どうなるのかしら。涙を流すどころじゃなくなるかも。
 そんな風に人間が目をまるくする様を想像するとおかしくて、ワクワクしてしまって、心は不思議とささくれ立つことなく凪いでいく。
 そうして自然と肩の力を抜いてのびのびと歌えるようになったアシレーヌの歌は、本人でも驚くほどの早さで上達していったのだった。

 アシレーヌの歌の実力に比例して、寂れていた砂浜は彼女の歌を聞きに集まった野生のポケモンたちで賑やかになっていった。
 彼女の歌に合わせ、キレイハナやフラフラスタイルのオドリドリが踊り、コロトックがメロディを奏でるようになった。ケララッパたちは木に留まって羽を休め、クラブたちは心地良さそうにプクプクと泡を吐く。
 その賑やかさは、へたくそな歌を誰にも聞かれたくないからと、ひとりで練習していたのがもう随分と昔のことのように思えるほどだった。

 そうして賑やかなその光景が、いつの間にか当たり前になったある日のこと。
 歌の練習の合間にふうと息を吐いたアシレーヌは、大きく肩を落とした。賑やかで素敵なこの場所にも、たったひとつだけ残念なことがあった。アシレーヌが歌を聞かせてやりたいただひとつの姿が、いつまで経っても見えないのだ。
 アシレーヌはステージの傍の流木に目を向ける。あの人間が椅子代わりにしていたものだ。
 ――もしかして、もう二度と会えないのだろうか? せっかく「ちゃんとした素敵な歌」を歌えるようになったのに。

 木の枝に留まって大人しくしていたケララッパたちが急に騒ぎ立てたのは、その時だった。
 キレイハナたちはそそくさと草むらの陰に隠れ、コロトックも演奏をやめて姿を消してしまった。一体何事? と、ケララッパたちの視線の先に目を向けたアシレーヌはハッと息を呑んだ。
 ここへ続く道の向こうに、ひとつの人影が見えたからだ。
 すぐさまアシレーヌはしゃんと背を伸ばし、期待を抱きながら大きく息を吸い込んだ。確信はない。それでもはやる心臓を落ち着かせるように胸へ手を当てて、あの日より随分と通るようになった声で、人影を導くために歌う。
 アシレーヌの歌声が耳に届いたのか、人影がゆっくりとした速度でここへ向かってくるのが見えた。それを捉えたアクアマリンのような目が、海の中で獲物を定めた時のようにすうっと細くなる。
 やわらかい砂を踏みしめる音が潮騒に混じる。その、数十秒後。最早懐かしいと思える声がアシレーヌの耳に届いた。

「……わあ、やっぱり! 素敵な歌が聞こえると思ったら、あなただったんだね」



 人間はといって、この砂浜から少し離れたところで暮らしているらしい。
 アシレーヌは自身がステージ代わりにしているほんの少し高い――オドリドリと同じ高さくらいの岩にもたれかかった人間のつむじを眺めながら、今しがた聞いた名前を頭の中で繰り返した。

「あの日は仕事で嫌なことがあって、すっごく凹んでたの。まっすぐ家に帰るのもなあって思ってたら、どこからか歌が聞こえてきて……」

 そうして今日のように歌に釣られ、この砂浜へ辿り着いたのだとは微笑んだ。
 初めて逢った日のことを思い出しながら、アシレーヌはふうんと相槌を打つ。人間――が足元の小さな白い貝殻を爪先でコツンと蹴った。

「あの日聞いたあなたの歌、本当に素敵だった。嫌なことがあったのも、思わず忘れちゃったくらい」

 あ、もちろんさっきの歌もすっごく素敵だったよ! と、眩しく輝く瞳を向けられて何だか胸の辺りがむず痒くなってしまったアシレーヌは、たまらず身じろぎをする。それから、以前彼女が椅子代わりにしていた流木をヒレで指し示した。
 いつまでも記憶の中の下手くそな歌を褒められる訳にはいかないのだ。今はもう、「ちゃんとした素敵な歌」が歌えるのだから。
 ――あの日と同じ歌を最初から歌ってあげるから、褒めるのなら今のわたしを褒めなさいよね。アシレーヌがそう思っていることを知る由もないは、白いヒレが指し示す先を辿ると「……んん?」と首を傾げた。
 ポケモンと人間では意思の疎通を図ることが難しいのだということを理解したアシレーヌは、岩から砂の上へするりと静かに降りた。の目が僅かにまるくなる。
 特等席で聞いてもらわなくっちゃ。そう意気込んだアシレーヌは、の背を鼻先でぐいと押してからたった一人のための特等席へと彼女を導いたのだった。

 あの日からずっと練習し続けていた歌を歌い終えると、惜しみない拍手が響く。礼をしてから顔を上げたアシレーヌは、が初めて逢った日と同じように涙を流していたものだから、あの時と同じようにポカンとしたあとに、何だかおかしくなって笑ってしまった。
 涙を拭いながら立ち上がったはアシレーヌの元へやって来ると、鼻をすすり上げながら「はあ、また泣いちゃった」と息を吐いた。ステージの歌姫を見上げる目は、涙でキラキラと輝いている。まるで星を散りばめたようなそれをアシレーヌが眺めていると、ははにかんだ。

「やっぱりあなたの歌は素敵だね。今聞いたばかりなのに、また聞きたいって思っちゃった」

 あの日からたくさん練習したんだから、当然でしょ。あなたに聞いてもらうために頑張ったのよ。アシレーヌは得意げに胸を張る。
 そんなアシレーヌの様子にはふふっと笑い声を漏らしたあと、「あ!」と声を上げた。アシレーヌが首を傾げると、は申し訳なさそうに眉を下げた。

「今日はお礼になりそうなものが何もなくって……」

 アシレーヌは首を振る。そんなものは必要なかった。ただ、「ちゃんとした素敵な歌」を知らない彼女が今の自分の歌を聞いてくれればそれで満足だったのだ。ホッと息を吐いたは、「ええと」そう口にしてから恐る恐るといった様子で言葉を続けた。

「……また、あなたへ会いに来てもいい?」

 なあんだ、そんなこと。アシレーヌが素直に頷くと、は顔を輝かせ、「ありがとう! すっごく嬉しい!」そう言って白いヒレを片方、両手で包み込むようにぎゅっと握った。
 まだ二回しか逢っていない人間で、交わしたことばだって多くないというのに、体に触れられてもアシレーヌは不思議と不快に思わなかった。それどころか、自分も既にまた彼女に会えるのを楽しみに思っている。
 そのことに気がついたアシレーヌは、が触れている部分がやけに熱いと思いながらも、なんてことない風を装って微笑んだ。
 
 以前よりも仕事が落ち着いたのだというは週に一日、多い時は二日ほどアシレーヌの元へとやって来るようになった。
 のリクエストを聞いて歌を歌う。それからたわいもない会話をする。そうしてふたりで一緒に過ごすうち、という存在が、彼女と過ごす時間が、アシレーヌにとってはとても大切なものになっていったのだった。



 のリクエスト通りの歌を歌い終えたアシレーヌは、いつものように静かに礼をした。そうすると、大きな拍手をしてから流木から立ち上がったがアシレーヌの元へとやって来る。

「ありがとう、アシレーヌ。今日の歌もやっぱり素敵だったなあ……」

 ねえ? とがすぐ傍にいたキレイハナとオドリドリたちへ笑顔で話しかける。砂浜で暮らすポケモンたちも最初はのことを警戒していたものの、今ではすっかり顔馴染みなのだ。
 はキレイハナたちが揃って頷いたのを見ると、肩に提げた鞄の中からラムのみを取り出して、それをアシレーヌの目の前へ差し出した。
 あなたがわたしへ会いに来てくれるのなら、お礼なんていいのに。そうは思いながらも、アシレーヌはラムのみを受け取るとすぐにかじりつく。鋭い牙を突き立てられた固い表皮は、小気味のいい音を立てて砕けた。

「……あれ? その歌、初めて聞いたかも」

 アシレーヌがラムのみをかじりながら鼻歌を歌っていると、が首を傾げた。
 の言う通り、それはアシレーヌがまだ一度も彼女へ聞かせたことのない歌だった。よく分かったわね。ラムのみの欠片を飲み込んだアシレーヌが感心して目を瞬かせると、は得意げに「そりゃあね、アシレーヌの歌をたくさん聞かせてもらってるもん」と笑った。

「その歌も聞いてみたいな。だめ?」

 に上目遣いで頼まれたアシレーヌは思わず頷きそうになったが、グッと堪えると首を横に振った。

「ええー! そんなあ……」

 があからさまに残念そうな表情を浮かべるので、アシレーヌはの頬に白いヒレをそうっと添えて微笑んだ。
 ――今はまだ、練習中だからだめ。でも、いつかあなただけに聞かせてあげる。この歌は、誰かから学んだものじゃない。わたしの完全なオリジナル。それも、ただひとりに愛を伝えるための歌だってことはまだ、ひみつなの。



(あなたのためのアリア/20250117)