ブルーベリー学園最大の特徴とも言えるテラリウムドームは、四つのエリアに分けられている。
その内のひとつ、雄大な氷山と氷河が特徴のポーラエリアの氷の大地を、とキュウコンは身を寄せ合うようにして歩いていた。
時刻は朝の九時を過ぎたところ。天候が快晴であったなら、ドームの天井に映し出される人工の青空が見えただろう。
宙にぷかぷか浮かぶユニランの姿や、のんきに雪の上へ寝転ぶパウワウの姿も見ることができたかもしれない。
しかし、今は生憎の吹雪だった。
雪を乗せてひゅうひゅうと吹き荒ぶ風の中、に見えるものといえばすぐ隣を同じ歩調で歩んでくれるキュウコンの姿と、設定した目的地へのルートを表示し続けてくれるスマホロトムの画面だけだった。
マップに印された、目的地を示す旗のマーク。それを確認したは、口元まで引き上げたネックウォーマーの下でふうと息を吐いた。
随分と歩いてきたものの、目的地に辿り着くためにはまだもう暫く歩かないといけないようだった。
さて、もうひと頑張りしないとね。そう意気込んだところで、不意にキュウコンが足を止めて振り返った。
「どうかした?」
釣られて足を止めたは、吹雪の中でさえも眩い星のようにきらめくコバルトブルーの目に、不安そうな色が滲んでいることに気がついた。
――朝から歩き続けているから心配してくれているのだろう。そんなキュウコンの気遣いを察したは、ズレたゴーグルを直しながらしっかりと頷いた。
「大丈夫だよ。行こう」
それでもキュウコンが訝しそうな目つきをするものだから、はふっと微笑んだ。
「本当に大丈夫だよ。まだまだ歩けるから」
厚い手袋をした手のひらで白藍の額を撫でてやると、ようやくキュウコンは納得したようだった。その言葉に嘘はないと判断したらしく、幾分不安の色の薄まったコバルトブルーの星が、を先導するべく元のように前を向いた。
ポーラエリアのほぼ中央に位置する屋外教室から、北東へ歩き始めてからしばらく経った頃。
マップアプリで現在位置を確認したは口を開いた。
「……この辺りみたい」
風の勢いは随分と弱まっていた。雪がはらはらと降っているがその程度では視界に影響もなく、ゴーグルをずり上げたは辺りを見回した。視界が一気にクリアになる。
少し離れたところで胸を張って歩くポッチャマや、背びれを小刻みに動かして浅瀬を泳ぐタッツー、氷の板の上で寝そべるパウワウに、カチコチに凍ったきのみをホタチで割るミジュマル、それから冷たい海と氷の陸地の境目で一休みをしているクマシュンが見えた。しかし、その中に目当ての姿はない。
「この辺りで間違いないはずなんだけど」
マップに記された目的地を示す旗のマークと、自分自身を示すアイコン――はこれにキュウコンの横顔の写真を設定している――はぴたりと重なっている。が首を傾げる横で、キュウコンがくあ、とあくびをこぼした。
少し待ってみることにしようか。そうキュウコンに声をかけたは、背負っていた鞄を氷の地面の上へ下ろした。
凝り固まった筋肉を解すように肩を動かして息を吐く。それから温かなスープの入った保温水筒を取り出すと、椅子の代わりによさそうな氷の段差に腰を下ろした。
隣でキュウコンは辺りの様子を探るようにひくひくと鼻を動かしている。風になびく美しいたてがみは、まるで空に伸びる薄い雲のようだ。
途中で何度か休んだものの、こうして休憩らしい休憩はとっていなかったので、蓋を開けてスープを口にしたは、スープの熱が体中に行き渡っていくのを感じながら先程よりも長く息を吐いた。
「キュウコンも飲む?」
氷の板の上で寝転ぶパウワウを観察していたらしいキュウコンは、振り返ると首を横に振った。
蓋をした保温水筒を傍らに置いたは、「だと思ったよ」と笑いながら鞄から個包装のポフィンを取り出した。
それを捉えた途端、コバルトブルーの星が輝きを増す。リリバのみが練りこまれているこのポフィンは、キュウコンの大好物なのだ。
包装を破いてポフィンを差し出すと、喉を鳴らしたキュウコンはそれを口にした。
キュウコンがポフィンを頬張る様子を暫し眺めたあと、は再び辺りを見回した。
ポーラエリアのとある地点で、ラプラスが大量発生している。
そのニュースがマップアプリに届いたのは、日付が変わってすぐの、が寮の自室のベッドで寝転がっている時だった。
ポーラエリアには数多くのみず・こおりタイプのポケモンが生息しているが、野生のラプラスはあまり見かけることがない。
理由は主にふたつ。彼らは稀に陸へ上がることもあるが、主な生活の場は冷たい水上――それも浅瀬ではなく陸地から離れたところであること。
もうひとつはポーラエリアの天候が変わりやすいことだ。
物凄い吹雪に見舞われたと思ったら、その数分後には穏やかな粉雪になっている。かと思えば雪すら降っていない晴天の時もある。
そんな変わりやすい天候の中、陸地ではなく冷たい水上を長時間探索するというのは至難の業で、ラプラスはポーラエリアの中でもあまり見かけないポケモンとなっているのだった。
「ラプラスの大量発生かあ……。見てみたいなあ」
ニュースを見ながらは呟いた。
テラリウムドームでポケモンの大量発生が起きるとその情報はすぐにニュースとしてマップアプリへ届くのだが、そこにラプラスの名があるのを見たのは初めてだった。
野生のラプラスを見たことがない訳じゃない。一度だけ、それもほんの一瞬なら見たことがあるけれど――そう思いながら、マップアプリを閉じたはアルバムを開いた。
アルバムには暇な時やブルレクの最中に撮った野生のポケモンの写真が何枚も保存されている。その中に、ラプラスの写真が一枚だけあった。陸地から離れたところを泳ぐ小さな姿を辛うじて映したものだ。
これを撮った時、は友人たちとのブルレクの最中だった。
ミッションの中に「ポーラエリアでポケモンを撮影しよう!」「泳いでいるポケモンを撮影しよう!」というものがあり、それならポーラエリアで水棲のポケモンを撮ればいいからと、唯一極寒の環境に適したパートナー――リージョンフォームのキュウコンを連れていたが向かったのだ。
そうしてやって来た、センタースクエアからすぐの場所にある北東の海に比べて小さな海。
タッツーかハリーセンでも撮影すればいいか。そう思ってスマホロトムのカメラを起動したは、ハッと息を飲んだ。
浅瀬を泳ぐタッツーやケイコウオたちのその先に、見慣れないシルエットが見えたからだ。
「……うそっ、ラプラス!?」
思わぬ存在には数秒フリーズしたものの、慌ててシャッターを切った。すぐに画面へふたつのミッションを達成した通知が表示される。
友人と連絡を取るのに使っているトークアプリに、「おつー」「ありがとー!助かった!」なんてメッセージが届く。しかしそれらの確認は後回しにして、は撮ったばかりの写真を食い入るように見つめた。
――そこには、確かにラプラスの姿が小さく映っていた。
ポーラエリアに野生のラプラスが生息しているのは知っていたし、いつか実際に見てみたいなあなんて思っていたけれど、まさかこのタイミングで見るなんて。何度も瞬きを繰り返したは、顔を上げるとラプラスがいたところを見遣る。
はらはらと舞う雪の中をシードラとネオラントがすいすいと横切っていくだけで、もう、あのシルエットは影も形もなかった。
それ以来、またいつか、それもできればあの時よりももっと近くでラプラスを見られたら――そう思うようになっていたにとって、この大量発生のニュースはまたとないチャンスであった。
暫し考えを巡らせたは、ベッドから起き上がると傍らのラグの上で丸くなっていたキュウコンへ声をかけた。
「ねぇ、キュウコン」
まどろんでいたキュウコンが耳をぴくりと動かして、顔を上げる。
「明日、早起きしてラプラスの大量発生を見に行かない?」
行くのは大変だけど……。が苦笑いしながら付け足すと、九つの尾を順番にゆらりと揺らめかせたキュウコンはなんてことなさそうに頷いた。
そして、現在。いつの間にか雪は止んでいた。しかしいくら待っても、近くの海辺を見渡してみても、ラプラスの姿はちっとも見えない。
トークアプリを開いたは、少し前に友人たちから届いていた「ラプラスいた?」「大丈夫そう?」というメッセージに、「到着はしたけれど、まだだよー」と返事をする。しょんぼりして涙を流すピカチュウのスタンプつきだ。
ほんの数秒もしないうちに、「頑張れ!」というマケンカニのスタンプや、「見られるといいねー」「無理はしないでね」というメッセージが返ってきたものだから、はふふっと微笑んだ。
キュウコンに今日の予定を相談したあと、念のため友人たちにも声をかけたがみんな断られてしまった。
パートナーのポケモンがポーラエリアの極寒の環境が大の苦手だからだとか、大量発生のニュース、たまに誤情報だったりするよね。せっかく大変な思いをして行ったのに、ラプラスがいませんでした……っていうのはちょっとなあ。など、その理由は様々だ。
友人の言った通り誤情報だったかなあ……。そうがため息をついた時だった。
隣でまるくなって大人しくしていたキュウコンの耳が二、三度ほど動いたかと思えば、何かに弾かれたように勢いよく起き上がったのだ。
「えっ、ちょ、キュウコン? 何?」
何か、危険な野生のポケモンでも? 釣られて立ち上がったは、不安を感じながらキュウコンへ目を向ける。するとキュウコンはの不安を拭うようにコバルトブルーの目を細め、十数メートル先の海辺へ顔を向けた。
凪いだ海のように穏やかなキュウコンの横顔を眺め、それからキュウコンが指し示す先を見たは、ハッと息を飲んだ。
冷たい海に浮かぶいくつもの分厚い氷の板。その隙間を縫うようにして泳ぐいくつかのシルエットに気がついたからだ。
徐々にふたりのいる場所へと近づいてくるその姿は、目の覚めるような水色をしていた。一本のツノに、くるりと巻いた愛らしい耳らしきものも見えた。背中を守る大きなグレーの甲羅もある。
間違いなくラプラスだった。それも一匹や二匹ではない。その数は十匹を優に超えている。
ラプラスたちはゆったりとした速度で海を泳ぎ、そのままのすぐ目の前の浅瀬までやって来た。
ラプラスという種族はその背に人間を乗せるのが好きだという。アローラ地方では水上の交通手段となっているほどだ。
そんな人間に対して友好的な彼らはがいても気にならないようで、警戒する素振りも見せない。何匹かのラプラスが陸へ上がり、と彼らの距離は数メートルほどになった。
いつか見たいと思っていた野生のラプラスを前にして、は体の動かし方を忘れてしまったかのように立ち尽くしていた。
写真を撮りたいのに。もう少し近寄ってみたいのに。そう思ってはいるものの、上手く足が動かないのだ。
が動けずにいることを察したキュウコンが、白藍の額でぐいと背を押した。よろめいたはネックウォーマーの下で「あ」と小さな声を発すると、キュウコンへ振り返る。
まったく、何やってるんだか。そう言いたげな、キュウコンの呆れたような眼差し。それを見て笑ったは肩から力を抜いた。
「……ありがとう。もう、大丈夫」
息を大きく吸って、スマホロトムのカメラを起動する。
いつかまた会えたら。そう願っていた存在が、アルバムの写真よりもずっと大きくそこにあった。
ダイヤモンドダストがイルミネーションのようにキラキラと輝いている。写真を撮っているうちに、ポーラエリアの天候がまた変わったのだ。
太陽の欠片か、ダイヤモンドダストか。光の粒が水面に散らばる眩い海をラプラスの群れが歌いながら泳いでいる。その様子を、はキュウコンと並んで座って眺めていた。今まで見てきたどんな景色よりも幻想的で、長いことこうしているのにまだまだ飽きそうになかった。
「キュウコン」
の呼び声に、キュウコンが目を瞬かせる。どうかした? とでも問うかのようにキュウコンが首を傾げると、たなびく雲のようなたてがみがゆらゆらと揺れた。
光に縁どられた姿は言葉に表せないほど神秘的で、「この姿のキュウコンを神の化身と敬う人々がいるのは分かるなあ」とは思った。それから、いつだってすぐとなりで助けてくれる大切なパートナーの体を抱きしめる。
「……ねぇ。ありがとう」
吹雪の中ここまで導いてくれたこと。動けずにいた自分の背を押してくれたこと。そして何より、いつだって隣にいてくれること。それら全部をひっくるめて、はもう一度「ありがとう」と囁いた。
の言葉を耳にしたキュウコンは、目をまるくしたあと静かに口元を引き上げた。その表情はまるで、「なんだ、そんなこと」「今更だなあ」そんな風に笑っているように見える。
だからは「笑わなくてもいいのに」と抗議をしようとしたのだが、得意げな顔をするキュウコンが白藍の体を強く押しつけてくるものだから、舌の上に乗せた言葉を飲み込んで笑ってしまった。
ダイヤモンドダストが飾る目の前の景色は確かに美しかった。それでもその美しさが、ダイヤモンドダストのせいだけじゃないってことをは知っている。
いつかまた会えたらと願い続けたラプラスに、やっと会えた。その感動だけではこうも胸を打たれないことも。
の隣にキュウコンがいることで、この世界は初めて眩く光るのだ。
(プリズム/20240213)
その内のひとつ、雄大な氷山と氷河が特徴のポーラエリアの氷の大地を、とキュウコンは身を寄せ合うようにして歩いていた。
時刻は朝の九時を過ぎたところ。天候が快晴であったなら、ドームの天井に映し出される人工の青空が見えただろう。
宙にぷかぷか浮かぶユニランの姿や、のんきに雪の上へ寝転ぶパウワウの姿も見ることができたかもしれない。
しかし、今は生憎の吹雪だった。
雪を乗せてひゅうひゅうと吹き荒ぶ風の中、に見えるものといえばすぐ隣を同じ歩調で歩んでくれるキュウコンの姿と、設定した目的地へのルートを表示し続けてくれるスマホロトムの画面だけだった。
マップに印された、目的地を示す旗のマーク。それを確認したは、口元まで引き上げたネックウォーマーの下でふうと息を吐いた。
随分と歩いてきたものの、目的地に辿り着くためにはまだもう暫く歩かないといけないようだった。
さて、もうひと頑張りしないとね。そう意気込んだところで、不意にキュウコンが足を止めて振り返った。
「どうかした?」
釣られて足を止めたは、吹雪の中でさえも眩い星のようにきらめくコバルトブルーの目に、不安そうな色が滲んでいることに気がついた。
――朝から歩き続けているから心配してくれているのだろう。そんなキュウコンの気遣いを察したは、ズレたゴーグルを直しながらしっかりと頷いた。
「大丈夫だよ。行こう」
それでもキュウコンが訝しそうな目つきをするものだから、はふっと微笑んだ。
「本当に大丈夫だよ。まだまだ歩けるから」
厚い手袋をした手のひらで白藍の額を撫でてやると、ようやくキュウコンは納得したようだった。その言葉に嘘はないと判断したらしく、幾分不安の色の薄まったコバルトブルーの星が、を先導するべく元のように前を向いた。
ポーラエリアのほぼ中央に位置する屋外教室から、北東へ歩き始めてからしばらく経った頃。
マップアプリで現在位置を確認したは口を開いた。
「……この辺りみたい」
風の勢いは随分と弱まっていた。雪がはらはらと降っているがその程度では視界に影響もなく、ゴーグルをずり上げたは辺りを見回した。視界が一気にクリアになる。
少し離れたところで胸を張って歩くポッチャマや、背びれを小刻みに動かして浅瀬を泳ぐタッツー、氷の板の上で寝そべるパウワウに、カチコチに凍ったきのみをホタチで割るミジュマル、それから冷たい海と氷の陸地の境目で一休みをしているクマシュンが見えた。しかし、その中に目当ての姿はない。
「この辺りで間違いないはずなんだけど」
マップに記された目的地を示す旗のマークと、自分自身を示すアイコン――はこれにキュウコンの横顔の写真を設定している――はぴたりと重なっている。が首を傾げる横で、キュウコンがくあ、とあくびをこぼした。
少し待ってみることにしようか。そうキュウコンに声をかけたは、背負っていた鞄を氷の地面の上へ下ろした。
凝り固まった筋肉を解すように肩を動かして息を吐く。それから温かなスープの入った保温水筒を取り出すと、椅子の代わりによさそうな氷の段差に腰を下ろした。
隣でキュウコンは辺りの様子を探るようにひくひくと鼻を動かしている。風になびく美しいたてがみは、まるで空に伸びる薄い雲のようだ。
途中で何度か休んだものの、こうして休憩らしい休憩はとっていなかったので、蓋を開けてスープを口にしたは、スープの熱が体中に行き渡っていくのを感じながら先程よりも長く息を吐いた。
「キュウコンも飲む?」
氷の板の上で寝転ぶパウワウを観察していたらしいキュウコンは、振り返ると首を横に振った。
蓋をした保温水筒を傍らに置いたは、「だと思ったよ」と笑いながら鞄から個包装のポフィンを取り出した。
それを捉えた途端、コバルトブルーの星が輝きを増す。リリバのみが練りこまれているこのポフィンは、キュウコンの大好物なのだ。
包装を破いてポフィンを差し出すと、喉を鳴らしたキュウコンはそれを口にした。
キュウコンがポフィンを頬張る様子を暫し眺めたあと、は再び辺りを見回した。
ポーラエリアのとある地点で、ラプラスが大量発生している。
そのニュースがマップアプリに届いたのは、日付が変わってすぐの、が寮の自室のベッドで寝転がっている時だった。
ポーラエリアには数多くのみず・こおりタイプのポケモンが生息しているが、野生のラプラスはあまり見かけることがない。
理由は主にふたつ。彼らは稀に陸へ上がることもあるが、主な生活の場は冷たい水上――それも浅瀬ではなく陸地から離れたところであること。
もうひとつはポーラエリアの天候が変わりやすいことだ。
物凄い吹雪に見舞われたと思ったら、その数分後には穏やかな粉雪になっている。かと思えば雪すら降っていない晴天の時もある。
そんな変わりやすい天候の中、陸地ではなく冷たい水上を長時間探索するというのは至難の業で、ラプラスはポーラエリアの中でもあまり見かけないポケモンとなっているのだった。
「ラプラスの大量発生かあ……。見てみたいなあ」
ニュースを見ながらは呟いた。
テラリウムドームでポケモンの大量発生が起きるとその情報はすぐにニュースとしてマップアプリへ届くのだが、そこにラプラスの名があるのを見たのは初めてだった。
野生のラプラスを見たことがない訳じゃない。一度だけ、それもほんの一瞬なら見たことがあるけれど――そう思いながら、マップアプリを閉じたはアルバムを開いた。
アルバムには暇な時やブルレクの最中に撮った野生のポケモンの写真が何枚も保存されている。その中に、ラプラスの写真が一枚だけあった。陸地から離れたところを泳ぐ小さな姿を辛うじて映したものだ。
これを撮った時、は友人たちとのブルレクの最中だった。
ミッションの中に「ポーラエリアでポケモンを撮影しよう!」「泳いでいるポケモンを撮影しよう!」というものがあり、それならポーラエリアで水棲のポケモンを撮ればいいからと、唯一極寒の環境に適したパートナー――リージョンフォームのキュウコンを連れていたが向かったのだ。
そうしてやって来た、センタースクエアからすぐの場所にある北東の海に比べて小さな海。
タッツーかハリーセンでも撮影すればいいか。そう思ってスマホロトムのカメラを起動したは、ハッと息を飲んだ。
浅瀬を泳ぐタッツーやケイコウオたちのその先に、見慣れないシルエットが見えたからだ。
「……うそっ、ラプラス!?」
思わぬ存在には数秒フリーズしたものの、慌ててシャッターを切った。すぐに画面へふたつのミッションを達成した通知が表示される。
友人と連絡を取るのに使っているトークアプリに、「おつー」「ありがとー!助かった!」なんてメッセージが届く。しかしそれらの確認は後回しにして、は撮ったばかりの写真を食い入るように見つめた。
――そこには、確かにラプラスの姿が小さく映っていた。
ポーラエリアに野生のラプラスが生息しているのは知っていたし、いつか実際に見てみたいなあなんて思っていたけれど、まさかこのタイミングで見るなんて。何度も瞬きを繰り返したは、顔を上げるとラプラスがいたところを見遣る。
はらはらと舞う雪の中をシードラとネオラントがすいすいと横切っていくだけで、もう、あのシルエットは影も形もなかった。
それ以来、またいつか、それもできればあの時よりももっと近くでラプラスを見られたら――そう思うようになっていたにとって、この大量発生のニュースはまたとないチャンスであった。
暫し考えを巡らせたは、ベッドから起き上がると傍らのラグの上で丸くなっていたキュウコンへ声をかけた。
「ねぇ、キュウコン」
まどろんでいたキュウコンが耳をぴくりと動かして、顔を上げる。
「明日、早起きしてラプラスの大量発生を見に行かない?」
行くのは大変だけど……。が苦笑いしながら付け足すと、九つの尾を順番にゆらりと揺らめかせたキュウコンはなんてことなさそうに頷いた。
そして、現在。いつの間にか雪は止んでいた。しかしいくら待っても、近くの海辺を見渡してみても、ラプラスの姿はちっとも見えない。
トークアプリを開いたは、少し前に友人たちから届いていた「ラプラスいた?」「大丈夫そう?」というメッセージに、「到着はしたけれど、まだだよー」と返事をする。しょんぼりして涙を流すピカチュウのスタンプつきだ。
ほんの数秒もしないうちに、「頑張れ!」というマケンカニのスタンプや、「見られるといいねー」「無理はしないでね」というメッセージが返ってきたものだから、はふふっと微笑んだ。
キュウコンに今日の予定を相談したあと、念のため友人たちにも声をかけたがみんな断られてしまった。
パートナーのポケモンがポーラエリアの極寒の環境が大の苦手だからだとか、大量発生のニュース、たまに誤情報だったりするよね。せっかく大変な思いをして行ったのに、ラプラスがいませんでした……っていうのはちょっとなあ。など、その理由は様々だ。
友人の言った通り誤情報だったかなあ……。そうがため息をついた時だった。
隣でまるくなって大人しくしていたキュウコンの耳が二、三度ほど動いたかと思えば、何かに弾かれたように勢いよく起き上がったのだ。
「えっ、ちょ、キュウコン? 何?」
何か、危険な野生のポケモンでも? 釣られて立ち上がったは、不安を感じながらキュウコンへ目を向ける。するとキュウコンはの不安を拭うようにコバルトブルーの目を細め、十数メートル先の海辺へ顔を向けた。
凪いだ海のように穏やかなキュウコンの横顔を眺め、それからキュウコンが指し示す先を見たは、ハッと息を飲んだ。
冷たい海に浮かぶいくつもの分厚い氷の板。その隙間を縫うようにして泳ぐいくつかのシルエットに気がついたからだ。
徐々にふたりのいる場所へと近づいてくるその姿は、目の覚めるような水色をしていた。一本のツノに、くるりと巻いた愛らしい耳らしきものも見えた。背中を守る大きなグレーの甲羅もある。
間違いなくラプラスだった。それも一匹や二匹ではない。その数は十匹を優に超えている。
ラプラスたちはゆったりとした速度で海を泳ぎ、そのままのすぐ目の前の浅瀬までやって来た。
ラプラスという種族はその背に人間を乗せるのが好きだという。アローラ地方では水上の交通手段となっているほどだ。
そんな人間に対して友好的な彼らはがいても気にならないようで、警戒する素振りも見せない。何匹かのラプラスが陸へ上がり、と彼らの距離は数メートルほどになった。
いつか見たいと思っていた野生のラプラスを前にして、は体の動かし方を忘れてしまったかのように立ち尽くしていた。
写真を撮りたいのに。もう少し近寄ってみたいのに。そう思ってはいるものの、上手く足が動かないのだ。
が動けずにいることを察したキュウコンが、白藍の額でぐいと背を押した。よろめいたはネックウォーマーの下で「あ」と小さな声を発すると、キュウコンへ振り返る。
まったく、何やってるんだか。そう言いたげな、キュウコンの呆れたような眼差し。それを見て笑ったは肩から力を抜いた。
「……ありがとう。もう、大丈夫」
息を大きく吸って、スマホロトムのカメラを起動する。
いつかまた会えたら。そう願っていた存在が、アルバムの写真よりもずっと大きくそこにあった。
ダイヤモンドダストがイルミネーションのようにキラキラと輝いている。写真を撮っているうちに、ポーラエリアの天候がまた変わったのだ。
太陽の欠片か、ダイヤモンドダストか。光の粒が水面に散らばる眩い海をラプラスの群れが歌いながら泳いでいる。その様子を、はキュウコンと並んで座って眺めていた。今まで見てきたどんな景色よりも幻想的で、長いことこうしているのにまだまだ飽きそうになかった。
「キュウコン」
の呼び声に、キュウコンが目を瞬かせる。どうかした? とでも問うかのようにキュウコンが首を傾げると、たなびく雲のようなたてがみがゆらゆらと揺れた。
光に縁どられた姿は言葉に表せないほど神秘的で、「この姿のキュウコンを神の化身と敬う人々がいるのは分かるなあ」とは思った。それから、いつだってすぐとなりで助けてくれる大切なパートナーの体を抱きしめる。
「……ねぇ。ありがとう」
吹雪の中ここまで導いてくれたこと。動けずにいた自分の背を押してくれたこと。そして何より、いつだって隣にいてくれること。それら全部をひっくるめて、はもう一度「ありがとう」と囁いた。
の言葉を耳にしたキュウコンは、目をまるくしたあと静かに口元を引き上げた。その表情はまるで、「なんだ、そんなこと」「今更だなあ」そんな風に笑っているように見える。
だからは「笑わなくてもいいのに」と抗議をしようとしたのだが、得意げな顔をするキュウコンが白藍の体を強く押しつけてくるものだから、舌の上に乗せた言葉を飲み込んで笑ってしまった。
ダイヤモンドダストが飾る目の前の景色は確かに美しかった。それでもその美しさが、ダイヤモンドダストのせいだけじゃないってことをは知っている。
いつかまた会えたらと願い続けたラプラスに、やっと会えた。その感動だけではこうも胸を打たれないことも。
の隣にキュウコンがいることで、この世界は初めて眩く光るのだ。
(プリズム/20240213)