『今日はニダンギル座流星群が見られるんだって』
ワイルドエリアニュースをチェックしていたがそう言ったのは、数時間前の日が落ち始めた頃のことだった。
一緒にニダンギル座流星群を見るべく夕食の後片付けを終え、テントの周りに野生のポケモン除けのゴールドスプレーを撒き直し、たき火の傍に座ってから既に数十分は経っていた。ニュースによればニダンギル座流星群は今日の夜から明け方までがピークらしい。だというのに、未だに星はひとつも流れずにいる。
ハシノマ原っぱの遥か上に広がる濃紺には冬の寒さに凍てついた星がいくつも散らばっているが、どれもただそこにあるのが当たり前のように燦然と輝いていた。
ひたすら空を眺めることに少しずつ飽き始めていたヨノワールは、すぐ隣に座るの横顔を盗み見た。
それから「自分は忍耐強さには自負があるが、トレーナーであるもなかなかのものだ」そう、少し感心する。
こうして待つこと数十分、空には何の変化もないというのに、は愚痴のひとつを零すこともなく、ただひたすらに空を見上げているのだから。
「あ」
ここにはとヨノワールのふたりだけしかいない。だというのに、不意に聞こえた声は他の誰にも知られたらいけないひみつの宝物を見つけたような、そんな随分と小さなものだった。声を発したが、ヨノワールへと振り返る。
「やっと流れた……! ヨノワールも見た?」
パチパチと音を鳴らして燃えるたき火の赤を取り込んで、夜空の星のようにきらめく瞳がヨノワールを映している。
まさか空を眺めるのに飽きてよそ見をしていたと知ったら、彼女は「もう!」なんて言って口を尖らせるだろう。そう判断したヨノワールは、ほんの少しの間を置いてから曖昧に頷く。するとはそれを肯定と受け取ったらしく、おだやかに微笑んだ。
「それならよかった! せっかくこうして頑張って起きているんだもん」
白い息を吐いて笑ったは、続けて「そうだ」と口にした。何を閃いたのやら。ヨノワールが小首を傾げる横で、がアウトドアチェアから立ち上がる。それからテントの入口を開けると、膝をついて何やらごそごそと荷物を漁り始めた。
やがて彼女は目当てのものを見つけたらしい。荷物を漁るのを止めると再びテントの入口を閉め、ヨノワールの隣のアウトドアチェアに元のように腰を下ろした。
何を探していたのか探るような視線をヨノワールが向けると、は手に持っていたものをたき火の明かりでよく見えるように持ち上げた。ひとつのマグカップと、そこに突っ込まれたスプーン。それから小さな四角い銀色の袋だ。
「温かいスープでも飲もうかと思って。結構辛いやつ」
が銀色の個包装の端を開けて中身をマグカップに入れると、微かに香ばしい匂いがした。
これは確かマトマのみの匂いだっただろうか。そう思いながら、ヨノワールはすぐ近くにあった保温瓶を手に取ると、その大きな手で器用に蓋を開けてやった。そのまま促すように目を向けると、は「ありがとう」と言いながらマグカップを差し出す。
たき火の炎がはぜる音に、トポトポとマグカップにお湯が注がれる音が重なった。
お湯が注がれたマグカップをスプーンでよくかき混ぜて、はふうふうと息を吹きかけた。白い湯気が散り散りになって、またすぐに立ちのぼる。何度かそれを繰り返してから、がマグカップの端に口をつけた。
「ひー、からい」
舌を出したが眉間にしわを寄せた。その様子をこっそりと笑って、ヨノワールは視線を空に投げる。丁度いくつかの星が流れていくのが見えた。
そういえば。と初めて出会った日にもこうして星が流れていたっけ。そんなことをヨノワールは思い出した。
ワイルドエリアの大地を照らしていた太陽がすっかり沈んで辺りが闇に包まれると、眩しい昼間は暗がりにすがたを隠していたものたちが活発になる。
当時はまだヨノワールではなくヨマワルだった彼もその内の一匹だ。
いつものように他のポケモン、つまり獲物を求めて見張り塔跡地をさまよい始めたヨマワルは、遙か遠く──キバ湖のほとりにひとつの明かりを見つけた。
あれは一体何だろう、とヨマワルは思った。
ガラルの中心に位置するワイルドエリアという場所は、いくつかのエリアからなる広大な土地だ。
どのエリアにも見渡す限りの豊かな自然が広がっていて、それぞれの場所にその環境に適応した多種多様のポケモンが生息している。その中でもヨマワルが棲み処にしている見張り塔跡地というエリアは、野生のゴーストタイプのポケモンが多く生息している場所だった。
見張り塔跡地に立ち入ったトレーナーが、戦闘になることもなくいつの間にか生気を奪われていた。そんなことが今までに何度かあったからか、このエリアは他に比べても人の往来がかなり少なく、野営をするトレーナーともなれば滅多にいない。
故にヨマワルはまだ、それがポケモンキャンプの明かりであることを知らなかった。
仲間のひとつ目の光とも違うし、それよりも強い赤色。昼間の明るさは苦手だが、暗闇にぼんやりと浮かぶ光は嫌いでなかったヨマワルは、見たことのない明かりに惹かれて吸い寄せられるようにそこへと向かった。
なだらかな丘を長い時間をかけてくだる。そうしてキバ湖のほとりで揺れる赤色にたどり着くと、その正体はかき集められた木々の枝の上で踊る炎だということが分かった。
その近くには丸いドーム状の見慣れないものも設置されており、ヨマワルはそれをしげしげと見つめた。
今でこそそれがテントという名前であり使い道も知っているヨノワールだが、当時はそれが何であるのか分からなかったのだ。
「……おとうさん、本当に今日はながれぼしが見えるの?」
「本当だよ。なに、ゆっくり待っていてごらん。その内ちゃんと流れるからね」
「わかった!」
物珍しいそれを観察していると、何やら話し声が聞こえたのでヨマワルは息を飲んだ。
息を殺して周囲の様子を伺うと、テントの近くに大きな人間と小さな人間が並んで立っているのが見えた。見慣れないものに気を取られてしまい、その存在にすぐに気がつかなかったのだ。
小さな人間が大きな人間に向かって「おとうさん」と話しかけていたことから、どうやら親子のようだ。そんなことを考えるヨマワルを他所に、二人の人間は顔を見合わせて笑って、それから揃って空を見上げた。
ほら、見て。そう言って父親が空を指さすので、ヨマワルも釣られるようにそちらへ目を向けた。だが、頭上にあるのはいつもと何ら変わらない紺碧の空だ。
あの人間たちは一体何をしているのだろう。
ついつい気になってしまったヨマワルが気配を消すのも忘れてもう少し近寄ると、不意に父親が振り返った。
「エルレイド!」
父親がモンスターボールを投げる。それと同時に赤い光が走って、エルレイドと呼ばれたポケモンがすがたを現した。エルレイドは地に足をつけると同時に、肘から刀のようなものを伸ばして戦闘態勢をとる。つい先ほどまでの和やかな雰囲気は一瞬で吹き飛んで、ピリッと張り詰めた空気に変わった。
「えっ、おとうさん、何?」
子供が振り返る。まんまるに見開かれた目とヨマワルの大きなひとつ目がぱちりと合った。
「……野生の、ヨマワル?」
子供が首を傾げる。父親が険しい顔のまま「そうだね」と頷いた。
「この辺りではあんまり見ないポケモンだよね!? 珍しいなあ」
子供がむじゃきな声で言う。父親とエルレイドは顔を見合わせると、少しだけ肩から力を抜いたようだった。
「、あんまり無闇に野生のポケモンに近寄るものじゃないよ。いつ危険な目にあうか分からないからね」
と呼ばれた子供が「はあい」と言いながら眉を下げる。
「……でも、ヨマワルがどうしてこんなところにいるの?」
父親の服の裾を掴んだ子供が首を傾げると、父親は腕を組んで「どうしてだろうね」と困ったように言った。
「……ねえねえ、もしかして迷子なの?」
好奇心を隠しきれない瞳がヨマワルを映す。「」父親が制するように声をかけるが、子供はふふっと楽しそうに笑った。
どうなの? と尚も問いかけてくる子供を見つめながら、ヨマワルはううんと考えた。
見張り塔跡地への帰り道は分かっている。ただ単に見慣れないたき火の明かりが気になってここに来ただけで迷子ではない。けれど──。
二人と一匹を見つめながら、悩んだ末にヨマワルは迷子なのだと意思表示をするべく頷いた。
間近で見たことのない「人間」という生き物に興味が沸いていたこともそうだし、この人間たちが一体何を見ようとしていたのか、それがどうしても気になってしまったのだ。
そのためここで迷子ではないと答えて「じゃあどうしてここに?」となるよりも、偶然ここにたどり着いた迷子だということにした方が都合がいいだろうと思ったのである。
ヨマワルが頷いたのを見て、というらしい子供が「やっぱり!」と声を上げた。
「わたしたちねぇ、これからながれぼしを見るの。せっかくだから、いっしょに見ていかない?」
その思いもよらない提案に、今度は父親が「ええっ!?」と声を上げる。
ながれぼし。その正体がなんであるかは全く分からないが、この人間たちの見ようとしているもの。それだけは理解したヨマワルは再度頷いた。
「ほら、ヨマワルも見たいって。ねえおとうさん、いいでしょう?」
「……分かった、分かった」
折れた父親が諦めたように頷くと、戦闘態勢をとったままだったエルレイドもやれやれと言いたげな表情を浮かべて構えていた腕を下ろした。
「きみね、悪さはしないでくれよ」
父親が眉間にしわを寄せて言うので、ヨマワルは勢いよく首を縦に振った。
アウトドアチェアに座ったの隣でぷかりと浮かんだヨマワルは空を見上げた。
野生のポケモンと一緒に星を見るのを父親が許可してくれたことが余程嬉しかったのか、あの後興奮した様子のが教えてくれたのだが、ながれぼしとはその言葉の通りに星が流れるらしい。
それも今日は流星群──つまり、ひとつやふたつじゃなくて、たくさん星が流れるそうなのだ。
星が流れるなんて、まさか。そんな半信半疑の気持ちでヨマワルがの横顔を盗み見ていると、が「あっ」と声を漏らして空を指さした。
一体何事かと慌てて夜空を見上げたヨマワルが見たものは、光の尾を引く星が消える瞬間だった。紺碧を割くように流れた一筋の白。空なんて毎日目に入るものだがそれは初めて見るもので、ヨマワルの目に強く焼き付いた。
「……見た?」
からの問いかけに、ヨマワルは空へ目を奪われたまま肯定を示すためにからだを揺らす。信じられない。そんな驚きに満ちたヨマワルの顔を見たが「ふふ」と嬉しそうに笑った。
その間にもまたひとつふたつと白く眩い星が流れていく。
やがて流星群はピークを迎えたのだろう。空に現れては彼方に消えていく数え切れないほどの星を見送って、ふと、ヨマワルはに目を向けた。
遥か上空、手の届かないそこで起こる奇跡に夢中になっている彼女は、自身へ向けられた視線に気がつくことはない。今この瞬間を心に刻みこもうと必死になっている瞳が、宝石のようにキラキラと輝いている。
あっ、とヨマワルは思った。見張り塔跡地をさ迷っていてこのたき火の明かりを見つけたわけだが、それはそもそも、いつものように獲物を探していたからだということを思い出したのだ。
今、この状況なら。警戒もせずに空をまっすぐ見つめているを獲物と定め、行動するのはたやすいことだ。けれど──。ヨマワルはふるりと首を振る。
命を奪うよりも先に彼女の父親とエルレイドが動くだろうということを除いても、そんな気分になれないのはどうしてだろう。
まだもう少し、いや、それよりももっと長くこうしていたい。そう思ってしまうのは何故なのか。探しても探しても、ヨマワルはその答えを見つけることができそうになかった。
ヨマワルがあれこれ考えていると、が「ねえ」と話しかけてきた。夜の闇にあっという間に溶けていってしまいそうなほど微かな囁きだ。ヨマワルはその小さな声を聞き漏らさないようにの方へからだを傾ける。
「……ながれぼしがながれて消えるまでにねがいごとを言えたら、ねがいごとが叶うんだって」
疑うこともなく、へえ、と素直にヨマワルは思った。星が流れるなんて嘘のようなことが目の前で起きているのだから、もしかしたらそれも本当かもしれないと思ったのだ。
「わたしね」
そうが切り出す。まるで今から自分の重大なひみつを明かすのではと思わせるような、そんな真剣な声だ。
「今日ながれぼしが見られたら、『わたしといっしょにぼうけんしてくれるポケモンと出会えますように』っておねがいしようと思っていたの」
それで、と続きを促すようにヨマワルが首を傾げると、は一呼吸置いてから言った。「そうしたらね、ヨマワルに会えたの。……だから、もしよかったら、わたしとぼうけんしてくれない?」と。
私と冒険してくれない? その言葉を、じっくりと長い時間をかけてヨマワルは理解した。それから何度も何度もひとつ目を瞬かせる。まさかそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
ヨマワルが固まっていると、が不安そうな表情で「だめかなあ」と呟いた。先ほどまでは眩い星のような輝きを湛えていたまるいふたつの目が、今は夜の闇を抱くキバ湖の水面のようにゆらゆらと不安げに揺れている。
どうしたものか悩んだ末に、ヨマワルはそうっと小さな手を握った。途端に彼女の目が大きく見開かれて、それからすうっと細くなった。
見張り塔跡地を漂っていたら向けられることのないような優しい眼差し。彼にとって、それは流れ星と同じく初めて見るものだった。
「ヨマワル、ありがとう! すっごく、すっごくうれしい!」
ヨマワルは息を飲んだ。頭上では滅多に見られないという流れ星がいくつも横切っていくのに、それらを追うことも忘れてキラキラと輝くの目を見つめ返す。
「そうだ! せっかくだもの。ヨマワルも何かながれぼしにおねがいしない?」
灰色の布のような手を握ったがむじゃきな表情で言う。そうして彼は思ったのだ。
ああ、もしも本当に願いが叶うのなら。を──。
「すごいねぇ。全然止みそうにないや」
マトマのみのスープを飲み終えたが言った。随分と待たせてくれたニダンギル座流星群はようやくピークを迎えたようで、彼女の言葉通り当分止みそうになかった。
そうしてお互い何をするでもなくただぼんやりと星空を眺めていると、空っぽになったものの、まだじんわりと暖かいのであろうマグカップを両手で包むように持ち直したが口を開いた。
「……人やポケモン、いきものがその命を終えるとね」
こうして星を眺める夜、はヨノワールに向かって色々な話をする。例えば星の名前だとか、あの星とその隣の星を結ぶとラプラス座になるのだとかそんな話だ。おかげでヨノワールはそれなりに星にまつわる知識を得ていた。さて、今日は一体どんな話だろう。そう思いながらヨノワールは心地の良い彼女の声に静かに耳を傾ける。
「空に輝く星になるんだって」
空に輝く星に? とヨノワールは僅かに首を傾げる。それを見たが、「ロマンチックじゃない?」と微笑んだ。
いきものがその命を終えると空に輝く星になる。それが本当のことか、考えてもヨノワールには分からなかった。
死というものを恐れる人間が考えたくだらないなぐさめのような気もするし、いきものの怨念がすがたかたちを変えて新しいいのちのかたち──ポケモンに生まれ変わることがあるように、もしかしたら星に生まれ変わることもあるのかもしれない。
腕を組み、思案しながらヨノワールはううんと唸る。「私にも本当かどうかは分からないけれど」はすっかり冷えてしまったのであろうマグカップを傍らに置きながら言葉を続ける。
「でもさあ、それが本当なら素敵だなって」
の言葉にヨノワールは顔をしかめる。それを彼女は見逃さなかったようで、ハッとしたような表情を浮かべるとアウトドアチェアから立ち上がった。
「えーっと、暗い気持ちにさせちゃったかな。ごめんね。そういうつもりはなくて……。ただ、こういう話もあるんだよってヨノワールにしたかっただけなの」
何気なくした話で、誰にでも当たり前に――そう、このふたりにだっていつか訪れる死という別れを想像させてしまった。せっかくの楽しい天体観測に水を差してしまった。そうは思ったのだろう。
私、めちゃくちゃ長生きするつもりだし! なんて言いながら、はヨノワールの大きなからだを精一杯抱きしめる。
ヨノワールは自分と比べて随分と小さいそのからだを両手で優しく抱きしめ返しながら、そうっと目を細めた。安心した様子で肩から力を抜いたの背を、するりと撫でてヨノワールは思う。
──違う。違うんだ、。別に私は暗い気持ちになってなどいない。いつか訪れるであろうとの別れにも、恐ろしさなどこれっぽっちも感じていない。
ただ、「いきものがその命を終えた時、星になる」その話がもし本当だったとして。もいつかは星になれると思っているのなら、それは大間違いだと思っただけだ。
例えがその命を終えたとしても、お前の魂は絶対に星になれやしない。いや、星になどさせない。させてたまるか。遥か遠い空なんて、自分の手の届かないところに行かせやしない。このからだの中に閉じ込めて、それで、ずっと一緒にいよう。の魂は私ものだ。
「……ヨノワール?」
ヨノワールがゆっくりと視線を落とすと、初めて会った時から変わらない星のような輝きを宿した目と視線が交わった。初めて会ったあの日から変わらず、ヨノワールを強く惹きつけて離さない瞳だ。
どうした。そう意味を込めてヨノワールが首を傾げると、は「ちょっと怖い顔をしてるなって思った」と困ったように笑う。何でもないのだと鳴き声を発して意思表示をすると、は何度か瞬きをしたあと、弾力のある大きなからだに頬を寄せた。
その大きなからだの奥底に、それよりも遥かに巨大で深い執着が渦巻いていることをは知らない。今後も彼女が知ることはないだろう。そもそもヨノワールがに知らせるつもりはないのだから。
ヨノワールは暗く重たいそれを隠すよう、の頭を大きなてのひらで包み込むように撫でた。
深い闇の中、星は静かに流れていく。それをそっと見送って、ヨノワールはあの日、ヨマワルだった時に流れ星に祈った願いをもう一度なぞった。
を、永遠に独り占めできますように。
(きみは星になれやしないのに/20220227)
お題箱の「少し寒い夜に、ヨノワールさんと星が見たいです」より。
ワイルドエリアニュースをチェックしていたがそう言ったのは、数時間前の日が落ち始めた頃のことだった。
一緒にニダンギル座流星群を見るべく夕食の後片付けを終え、テントの周りに野生のポケモン除けのゴールドスプレーを撒き直し、たき火の傍に座ってから既に数十分は経っていた。ニュースによればニダンギル座流星群は今日の夜から明け方までがピークらしい。だというのに、未だに星はひとつも流れずにいる。
ハシノマ原っぱの遥か上に広がる濃紺には冬の寒さに凍てついた星がいくつも散らばっているが、どれもただそこにあるのが当たり前のように燦然と輝いていた。
ひたすら空を眺めることに少しずつ飽き始めていたヨノワールは、すぐ隣に座るの横顔を盗み見た。
それから「自分は忍耐強さには自負があるが、トレーナーであるもなかなかのものだ」そう、少し感心する。
こうして待つこと数十分、空には何の変化もないというのに、は愚痴のひとつを零すこともなく、ただひたすらに空を見上げているのだから。
「あ」
ここにはとヨノワールのふたりだけしかいない。だというのに、不意に聞こえた声は他の誰にも知られたらいけないひみつの宝物を見つけたような、そんな随分と小さなものだった。声を発したが、ヨノワールへと振り返る。
「やっと流れた……! ヨノワールも見た?」
パチパチと音を鳴らして燃えるたき火の赤を取り込んで、夜空の星のようにきらめく瞳がヨノワールを映している。
まさか空を眺めるのに飽きてよそ見をしていたと知ったら、彼女は「もう!」なんて言って口を尖らせるだろう。そう判断したヨノワールは、ほんの少しの間を置いてから曖昧に頷く。するとはそれを肯定と受け取ったらしく、おだやかに微笑んだ。
「それならよかった! せっかくこうして頑張って起きているんだもん」
白い息を吐いて笑ったは、続けて「そうだ」と口にした。何を閃いたのやら。ヨノワールが小首を傾げる横で、がアウトドアチェアから立ち上がる。それからテントの入口を開けると、膝をついて何やらごそごそと荷物を漁り始めた。
やがて彼女は目当てのものを見つけたらしい。荷物を漁るのを止めると再びテントの入口を閉め、ヨノワールの隣のアウトドアチェアに元のように腰を下ろした。
何を探していたのか探るような視線をヨノワールが向けると、は手に持っていたものをたき火の明かりでよく見えるように持ち上げた。ひとつのマグカップと、そこに突っ込まれたスプーン。それから小さな四角い銀色の袋だ。
「温かいスープでも飲もうかと思って。結構辛いやつ」
が銀色の個包装の端を開けて中身をマグカップに入れると、微かに香ばしい匂いがした。
これは確かマトマのみの匂いだっただろうか。そう思いながら、ヨノワールはすぐ近くにあった保温瓶を手に取ると、その大きな手で器用に蓋を開けてやった。そのまま促すように目を向けると、は「ありがとう」と言いながらマグカップを差し出す。
たき火の炎がはぜる音に、トポトポとマグカップにお湯が注がれる音が重なった。
お湯が注がれたマグカップをスプーンでよくかき混ぜて、はふうふうと息を吹きかけた。白い湯気が散り散りになって、またすぐに立ちのぼる。何度かそれを繰り返してから、がマグカップの端に口をつけた。
「ひー、からい」
舌を出したが眉間にしわを寄せた。その様子をこっそりと笑って、ヨノワールは視線を空に投げる。丁度いくつかの星が流れていくのが見えた。
そういえば。と初めて出会った日にもこうして星が流れていたっけ。そんなことをヨノワールは思い出した。
ワイルドエリアの大地を照らしていた太陽がすっかり沈んで辺りが闇に包まれると、眩しい昼間は暗がりにすがたを隠していたものたちが活発になる。
当時はまだヨノワールではなくヨマワルだった彼もその内の一匹だ。
いつものように他のポケモン、つまり獲物を求めて見張り塔跡地をさまよい始めたヨマワルは、遙か遠く──キバ湖のほとりにひとつの明かりを見つけた。
あれは一体何だろう、とヨマワルは思った。
ガラルの中心に位置するワイルドエリアという場所は、いくつかのエリアからなる広大な土地だ。
どのエリアにも見渡す限りの豊かな自然が広がっていて、それぞれの場所にその環境に適応した多種多様のポケモンが生息している。その中でもヨマワルが棲み処にしている見張り塔跡地というエリアは、野生のゴーストタイプのポケモンが多く生息している場所だった。
見張り塔跡地に立ち入ったトレーナーが、戦闘になることもなくいつの間にか生気を奪われていた。そんなことが今までに何度かあったからか、このエリアは他に比べても人の往来がかなり少なく、野営をするトレーナーともなれば滅多にいない。
故にヨマワルはまだ、それがポケモンキャンプの明かりであることを知らなかった。
仲間のひとつ目の光とも違うし、それよりも強い赤色。昼間の明るさは苦手だが、暗闇にぼんやりと浮かぶ光は嫌いでなかったヨマワルは、見たことのない明かりに惹かれて吸い寄せられるようにそこへと向かった。
なだらかな丘を長い時間をかけてくだる。そうしてキバ湖のほとりで揺れる赤色にたどり着くと、その正体はかき集められた木々の枝の上で踊る炎だということが分かった。
その近くには丸いドーム状の見慣れないものも設置されており、ヨマワルはそれをしげしげと見つめた。
今でこそそれがテントという名前であり使い道も知っているヨノワールだが、当時はそれが何であるのか分からなかったのだ。
「……おとうさん、本当に今日はながれぼしが見えるの?」
「本当だよ。なに、ゆっくり待っていてごらん。その内ちゃんと流れるからね」
「わかった!」
物珍しいそれを観察していると、何やら話し声が聞こえたのでヨマワルは息を飲んだ。
息を殺して周囲の様子を伺うと、テントの近くに大きな人間と小さな人間が並んで立っているのが見えた。見慣れないものに気を取られてしまい、その存在にすぐに気がつかなかったのだ。
小さな人間が大きな人間に向かって「おとうさん」と話しかけていたことから、どうやら親子のようだ。そんなことを考えるヨマワルを他所に、二人の人間は顔を見合わせて笑って、それから揃って空を見上げた。
ほら、見て。そう言って父親が空を指さすので、ヨマワルも釣られるようにそちらへ目を向けた。だが、頭上にあるのはいつもと何ら変わらない紺碧の空だ。
あの人間たちは一体何をしているのだろう。
ついつい気になってしまったヨマワルが気配を消すのも忘れてもう少し近寄ると、不意に父親が振り返った。
「エルレイド!」
父親がモンスターボールを投げる。それと同時に赤い光が走って、エルレイドと呼ばれたポケモンがすがたを現した。エルレイドは地に足をつけると同時に、肘から刀のようなものを伸ばして戦闘態勢をとる。つい先ほどまでの和やかな雰囲気は一瞬で吹き飛んで、ピリッと張り詰めた空気に変わった。
「えっ、おとうさん、何?」
子供が振り返る。まんまるに見開かれた目とヨマワルの大きなひとつ目がぱちりと合った。
「……野生の、ヨマワル?」
子供が首を傾げる。父親が険しい顔のまま「そうだね」と頷いた。
「この辺りではあんまり見ないポケモンだよね!? 珍しいなあ」
子供がむじゃきな声で言う。父親とエルレイドは顔を見合わせると、少しだけ肩から力を抜いたようだった。
「、あんまり無闇に野生のポケモンに近寄るものじゃないよ。いつ危険な目にあうか分からないからね」
と呼ばれた子供が「はあい」と言いながら眉を下げる。
「……でも、ヨマワルがどうしてこんなところにいるの?」
父親の服の裾を掴んだ子供が首を傾げると、父親は腕を組んで「どうしてだろうね」と困ったように言った。
「……ねえねえ、もしかして迷子なの?」
好奇心を隠しきれない瞳がヨマワルを映す。「」父親が制するように声をかけるが、子供はふふっと楽しそうに笑った。
どうなの? と尚も問いかけてくる子供を見つめながら、ヨマワルはううんと考えた。
見張り塔跡地への帰り道は分かっている。ただ単に見慣れないたき火の明かりが気になってここに来ただけで迷子ではない。けれど──。
二人と一匹を見つめながら、悩んだ末にヨマワルは迷子なのだと意思表示をするべく頷いた。
間近で見たことのない「人間」という生き物に興味が沸いていたこともそうだし、この人間たちが一体何を見ようとしていたのか、それがどうしても気になってしまったのだ。
そのためここで迷子ではないと答えて「じゃあどうしてここに?」となるよりも、偶然ここにたどり着いた迷子だということにした方が都合がいいだろうと思ったのである。
ヨマワルが頷いたのを見て、というらしい子供が「やっぱり!」と声を上げた。
「わたしたちねぇ、これからながれぼしを見るの。せっかくだから、いっしょに見ていかない?」
その思いもよらない提案に、今度は父親が「ええっ!?」と声を上げる。
ながれぼし。その正体がなんであるかは全く分からないが、この人間たちの見ようとしているもの。それだけは理解したヨマワルは再度頷いた。
「ほら、ヨマワルも見たいって。ねえおとうさん、いいでしょう?」
「……分かった、分かった」
折れた父親が諦めたように頷くと、戦闘態勢をとったままだったエルレイドもやれやれと言いたげな表情を浮かべて構えていた腕を下ろした。
「きみね、悪さはしないでくれよ」
父親が眉間にしわを寄せて言うので、ヨマワルは勢いよく首を縦に振った。
アウトドアチェアに座ったの隣でぷかりと浮かんだヨマワルは空を見上げた。
野生のポケモンと一緒に星を見るのを父親が許可してくれたことが余程嬉しかったのか、あの後興奮した様子のが教えてくれたのだが、ながれぼしとはその言葉の通りに星が流れるらしい。
それも今日は流星群──つまり、ひとつやふたつじゃなくて、たくさん星が流れるそうなのだ。
星が流れるなんて、まさか。そんな半信半疑の気持ちでヨマワルがの横顔を盗み見ていると、が「あっ」と声を漏らして空を指さした。
一体何事かと慌てて夜空を見上げたヨマワルが見たものは、光の尾を引く星が消える瞬間だった。紺碧を割くように流れた一筋の白。空なんて毎日目に入るものだがそれは初めて見るもので、ヨマワルの目に強く焼き付いた。
「……見た?」
からの問いかけに、ヨマワルは空へ目を奪われたまま肯定を示すためにからだを揺らす。信じられない。そんな驚きに満ちたヨマワルの顔を見たが「ふふ」と嬉しそうに笑った。
その間にもまたひとつふたつと白く眩い星が流れていく。
やがて流星群はピークを迎えたのだろう。空に現れては彼方に消えていく数え切れないほどの星を見送って、ふと、ヨマワルはに目を向けた。
遥か上空、手の届かないそこで起こる奇跡に夢中になっている彼女は、自身へ向けられた視線に気がつくことはない。今この瞬間を心に刻みこもうと必死になっている瞳が、宝石のようにキラキラと輝いている。
あっ、とヨマワルは思った。見張り塔跡地をさ迷っていてこのたき火の明かりを見つけたわけだが、それはそもそも、いつものように獲物を探していたからだということを思い出したのだ。
今、この状況なら。警戒もせずに空をまっすぐ見つめているを獲物と定め、行動するのはたやすいことだ。けれど──。ヨマワルはふるりと首を振る。
命を奪うよりも先に彼女の父親とエルレイドが動くだろうということを除いても、そんな気分になれないのはどうしてだろう。
まだもう少し、いや、それよりももっと長くこうしていたい。そう思ってしまうのは何故なのか。探しても探しても、ヨマワルはその答えを見つけることができそうになかった。
ヨマワルがあれこれ考えていると、が「ねえ」と話しかけてきた。夜の闇にあっという間に溶けていってしまいそうなほど微かな囁きだ。ヨマワルはその小さな声を聞き漏らさないようにの方へからだを傾ける。
「……ながれぼしがながれて消えるまでにねがいごとを言えたら、ねがいごとが叶うんだって」
疑うこともなく、へえ、と素直にヨマワルは思った。星が流れるなんて嘘のようなことが目の前で起きているのだから、もしかしたらそれも本当かもしれないと思ったのだ。
「わたしね」
そうが切り出す。まるで今から自分の重大なひみつを明かすのではと思わせるような、そんな真剣な声だ。
「今日ながれぼしが見られたら、『わたしといっしょにぼうけんしてくれるポケモンと出会えますように』っておねがいしようと思っていたの」
それで、と続きを促すようにヨマワルが首を傾げると、は一呼吸置いてから言った。「そうしたらね、ヨマワルに会えたの。……だから、もしよかったら、わたしとぼうけんしてくれない?」と。
私と冒険してくれない? その言葉を、じっくりと長い時間をかけてヨマワルは理解した。それから何度も何度もひとつ目を瞬かせる。まさかそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
ヨマワルが固まっていると、が不安そうな表情で「だめかなあ」と呟いた。先ほどまでは眩い星のような輝きを湛えていたまるいふたつの目が、今は夜の闇を抱くキバ湖の水面のようにゆらゆらと不安げに揺れている。
どうしたものか悩んだ末に、ヨマワルはそうっと小さな手を握った。途端に彼女の目が大きく見開かれて、それからすうっと細くなった。
見張り塔跡地を漂っていたら向けられることのないような優しい眼差し。彼にとって、それは流れ星と同じく初めて見るものだった。
「ヨマワル、ありがとう! すっごく、すっごくうれしい!」
ヨマワルは息を飲んだ。頭上では滅多に見られないという流れ星がいくつも横切っていくのに、それらを追うことも忘れてキラキラと輝くの目を見つめ返す。
「そうだ! せっかくだもの。ヨマワルも何かながれぼしにおねがいしない?」
灰色の布のような手を握ったがむじゃきな表情で言う。そうして彼は思ったのだ。
ああ、もしも本当に願いが叶うのなら。を──。
「すごいねぇ。全然止みそうにないや」
マトマのみのスープを飲み終えたが言った。随分と待たせてくれたニダンギル座流星群はようやくピークを迎えたようで、彼女の言葉通り当分止みそうになかった。
そうしてお互い何をするでもなくただぼんやりと星空を眺めていると、空っぽになったものの、まだじんわりと暖かいのであろうマグカップを両手で包むように持ち直したが口を開いた。
「……人やポケモン、いきものがその命を終えるとね」
こうして星を眺める夜、はヨノワールに向かって色々な話をする。例えば星の名前だとか、あの星とその隣の星を結ぶとラプラス座になるのだとかそんな話だ。おかげでヨノワールはそれなりに星にまつわる知識を得ていた。さて、今日は一体どんな話だろう。そう思いながらヨノワールは心地の良い彼女の声に静かに耳を傾ける。
「空に輝く星になるんだって」
空に輝く星に? とヨノワールは僅かに首を傾げる。それを見たが、「ロマンチックじゃない?」と微笑んだ。
いきものがその命を終えると空に輝く星になる。それが本当のことか、考えてもヨノワールには分からなかった。
死というものを恐れる人間が考えたくだらないなぐさめのような気もするし、いきものの怨念がすがたかたちを変えて新しいいのちのかたち──ポケモンに生まれ変わることがあるように、もしかしたら星に生まれ変わることもあるのかもしれない。
腕を組み、思案しながらヨノワールはううんと唸る。「私にも本当かどうかは分からないけれど」はすっかり冷えてしまったのであろうマグカップを傍らに置きながら言葉を続ける。
「でもさあ、それが本当なら素敵だなって」
の言葉にヨノワールは顔をしかめる。それを彼女は見逃さなかったようで、ハッとしたような表情を浮かべるとアウトドアチェアから立ち上がった。
「えーっと、暗い気持ちにさせちゃったかな。ごめんね。そういうつもりはなくて……。ただ、こういう話もあるんだよってヨノワールにしたかっただけなの」
何気なくした話で、誰にでも当たり前に――そう、このふたりにだっていつか訪れる死という別れを想像させてしまった。せっかくの楽しい天体観測に水を差してしまった。そうは思ったのだろう。
私、めちゃくちゃ長生きするつもりだし! なんて言いながら、はヨノワールの大きなからだを精一杯抱きしめる。
ヨノワールは自分と比べて随分と小さいそのからだを両手で優しく抱きしめ返しながら、そうっと目を細めた。安心した様子で肩から力を抜いたの背を、するりと撫でてヨノワールは思う。
──違う。違うんだ、。別に私は暗い気持ちになってなどいない。いつか訪れるであろうとの別れにも、恐ろしさなどこれっぽっちも感じていない。
ただ、「いきものがその命を終えた時、星になる」その話がもし本当だったとして。もいつかは星になれると思っているのなら、それは大間違いだと思っただけだ。
例えがその命を終えたとしても、お前の魂は絶対に星になれやしない。いや、星になどさせない。させてたまるか。遥か遠い空なんて、自分の手の届かないところに行かせやしない。このからだの中に閉じ込めて、それで、ずっと一緒にいよう。の魂は私ものだ。
「……ヨノワール?」
ヨノワールがゆっくりと視線を落とすと、初めて会った時から変わらない星のような輝きを宿した目と視線が交わった。初めて会ったあの日から変わらず、ヨノワールを強く惹きつけて離さない瞳だ。
どうした。そう意味を込めてヨノワールが首を傾げると、は「ちょっと怖い顔をしてるなって思った」と困ったように笑う。何でもないのだと鳴き声を発して意思表示をすると、は何度か瞬きをしたあと、弾力のある大きなからだに頬を寄せた。
その大きなからだの奥底に、それよりも遥かに巨大で深い執着が渦巻いていることをは知らない。今後も彼女が知ることはないだろう。そもそもヨノワールがに知らせるつもりはないのだから。
ヨノワールは暗く重たいそれを隠すよう、の頭を大きなてのひらで包み込むように撫でた。
深い闇の中、星は静かに流れていく。それをそっと見送って、ヨノワールはあの日、ヨマワルだった時に流れ星に祈った願いをもう一度なぞった。
を、永遠に独り占めできますように。
(きみは星になれやしないのに/20220227)
お題箱の「少し寒い夜に、ヨノワールさんと星が見たいです」より。