朝早くから長いことノートパソコンに向かっていたからか、肩がとても凝ってしまった。右肩に左手を添えて、凝り固まった筋肉を解すように動かしたり、椅子から立ち上がって伸びをしてみるも、両肩へのしかかった疲れはなかなかどこかへいってはくれない。
ノートパソコンを閉じる前に、画面に表示された時刻を確認する。もうすぐで十時だ。
そういえば、戸棚に貰い物のお菓子があったっけ。それに、ロズレイティーのティーバッグも。紅茶でも淹れて一息つこうかな。そう、あれこれと考えながら立ち上がる。
すると、庭で微睡んでいたメブキジカが目を覚ましたのが見えた。リビングから庭へ続く大きな窓は閉められているというのに、メブキジカはこちらの気配に気付いたようだった。ぐうっと伸びをしてから立ち上がると、ふるりと頭を振って、こちらへ黒曜石のように美しい瞳を向ける。
「メブキジカ、おいで。一緒にお菓子でも食べない?」
白いタオルを一枚手に取った私は、窓を開けてメブキジカに声を掛ける。
庭とリビングとの境目までゆっくりやって来たメブキジカは、そこに敷かれた泥を落とすためのマットを何回か踏んだ後、右前足を上げた。
メブキジカの蹄に手を添えて、マットだけでは落としきれなかった蹄の裏の泥や草をタオルで拭き取る。次に左前足、それから私が一度庭に出て右後ろ足、左後ろ足と順番に汚れを落としていく。全ての蹄の汚れを落とし、最後に横っ腹についた草を払えば完了だ。
メブキジカは自分でも汚れが残っていないことを確認すると、角が窓に引っ掛かってしまわないように気を付けながら、頭を低くしてリビングに上がった。
「お菓子持ってくるね。ちょっと待ってて」
タオルを脱衣場の洗濯機の前に放り投げて、キッチンに向かった私は電気ケトルに水を入れる。沸騰するまでの間にメブキジカにお菓子を出そうと棚を漁っていると、後ろから服の裾を引っ張られた。
「うわっ、びっくりした。……どうしたの?」
驚いて振り返ると、メブキジカはすぐに咥えていた服の裾を離した。けれど、こちらをじっと見つめたままだ。
お菓子の催促かと思い、棚から取り出した可愛らしい缶の蓋を開けて、中身を手に取る。個別に包装された、色とりどりのポフレ。包装を破いて桃色のそれを差し出すと、彼は少し悩む素振りを見せた。
どうやらメブキジカの言いたいことは違ったらしい。
他の味がよかった? と、他の色をいくつか取り出して、手のひらに広げてみる。メブキジカはふるると鼻を鳴らすとそれらのポフレを口に咥えて、そのままリビングに向かってしまった。
電気ケトルの水はとっくに沸騰していたけれど、紅茶を淹れるのは後回しだ。ひとまずメブキジカの後を追う。
メブキジカは、リビングの椅子に掛けられたトートバッグに鼻先を突っ込んでいた。私の手のひらから持ち去ったポフレは全てあの中にしまったらしい。
一体どうしたのか、メブキジカの考えが掴めなくて私がただただ見つめていると、彼はテーブルの上に置いてあった空の水筒を口で咥えた。普通のものよりも少し細めの、空色の水筒。それを差し出され、物言いたげにじっと見つめられたところで、私は漸く「ああ」と頷くことができた。
今日の天気は気持ちのいい秋晴れ。十一月になるというのに、肌寒くはなく、むしろ少し暖かいくらいだ。メブキジカは、私に外に行こうと言いたいのだろう。
「おっけー。準備するからちょっと待っててね」
メブキジカから水筒を受け取ると、彼はやっと満足そうに頷いた。
外に出ると、やはり今日は過ごしやすい気候だと実感する。数日前まではかなり冷え込んでいたのが嘘のように暖かい。
隣を歩くメブキジカの足取りはいつもに比べ弾んでいる。特性「ようりょくそ」のお陰なのか、にほんばれ、というほどの日差しの強さではないけれど、太陽の光を浴びると体の調子がよくなるらしい。釣られて私の足取りも軽くなる。
歩く度に、メブキジカの蹄が地面を蹴る乾いた音と、トートバッグの中で水筒が立てるカラカラという音が重なった。
結局ロズレイティーを淹れるのは止めにして、水筒の中身はおいしいみずにした。トートバッグに入っているのは水筒と、メブキジカ用のおいしいみずのペットボトルだ。あとはいくつかのポフレと、彼の好みの味のきのみと、私のおやつの貰い物のクッキーを何枚かに、公園で休憩できるよう、レジャーシートを一枚。
ピクニックにもってこいの大きな公園は近所にいくつかあるけれど、どの公園に行くかは未定のまま、二人で並んで歩いていく。
「わあ。見て、ほら」
不意に目に留まったのは、遠くに見える鮮やかな色彩だった。山の木々が紅葉して、赤、橙、黄色、褐色に染まっているのだ。道の端で並んで足を止めると、メブキジカがまた私の袖を引く。今度はすぐに、彼の言いたいことが理解できた。
「せっかく外に出たんだし、行ってみる?」
あそこは低い山で、気軽に散歩ができるような山だ。ここ数年は全く行っていないけれど、前に一度行ったことがある。その時のことを思い出しながら尋ねると、メブキジカが嬉しそうに小さく跳ねた。
「何となく公園に向かってたけど、近くのバス停に行き先変更、ね」
確か近くのバス停から、あの山の麓行きのバスが出ていたはずなのだ。メブキジカがこくりと頷いたのを確認すると、すぐにバス停に向かった。
どうやら私の記憶は正しかったらしい。近くのバス停に着いてすぐに停留所の確認をしたのだけど、そこにはちゃんとあの山の麓のバス停の名前も書かれていたのだ。
少し待って到着したバスに乗り込み、窓から見える外の景色を楽しんでいると、あっという間に目的の山の麓に着いた。
私はまず、トートバッグからモンスターボールを取り出した。開閉スイッチを押すと赤い光に包まれて、メブキジカが姿を現す。
シキジカの頃なら問題はなかったかもしれないけれど、今や彼は立派なメブキジカ。大型のポケモンはバスの中ではボールに入れる決まりなのだ。
バスに揺られていたおよそ二十分ほどの間、ボールの中で大人しくしていたメブキジカは「やっと外か」となんて言いそうな顔で地面を踏み鳴らし、ふるりと角を振った。
「遠くから見ても綺麗だなって思ったけれど、近くで見るとより一層綺麗に見えるねえ」
擦り寄ってきたメブキジカの額を撫でながら、山を見上げる。
青い空を背景に、幾重にも重なる美しい色たち。時折、どこからかケンホロウのものと思われる鳥ポケモンの鳴き声が響く。
「……よし、歩いてみようか」
私の言葉にぴくりと耳を動かして、それから早く早く、と急かすように鼻を鳴らすメブキジカが可愛らしい。少し早足で遊歩道に向かった茶色の背中を、待ってと声を掛けて慌てて追いかけた。
「こういうの、紅葉狩りって言うんだよ」
山の中の遊歩道を歩きながら、メブキジカに話し掛ける。メブキジカは足を止めて、不思議そうな顔をした。自然と私の足も止まる。
「こうやって山だとか、野に出掛けてね。色づいた木々の紅葉を見て楽しむことを、紅葉狩りって言うの」
ふむ、と相槌を打つようにメブキジカが喉を鳴らした。続けて、私へ角を見せ付けるようにふるふると揺らす。
「ふふ、そうだね。私は家にいても紅葉が見て楽しめるんだよね」
──メブキジカは、季節によって姿を変える珍しい生態のポケモンだ。春には梅のような淡い桃色の花をつけて、夏にはケヤキのような葉が青々と生い茂る。秋にはこの通り見事な紅葉が、そして冬には白樺のように角が白く染まるのだ。
春にはお花見、なんて言いながら、庭先でメブキジカの角に咲いた花をずっと眺めていたことを思い出す。
そうだとも、と得意気な顔をしたメブキジカが、少し胸を張って歩き出す。その様子に思わず笑ってしまいながら、私は茶色の背を追った。
時折同じように紅葉狩りを楽しむ人とポケモンとすれ違うこともあったけれど、それでも山の中はとても静かだった。
二人で落ち葉の絨毯を踏み締める音と、トートバッグの中の水筒が立てる音と、鳥ポケモンの囀り、それと木々の葉が風にそよぐ音だけが聞こえる。
メブキジカは興味深そうに空気の匂いを嗅いで、時々落ち葉の山の中に鼻先を突っ込んだり、空を隠してしまうほどの紅葉を眺めたりと、この紅葉狩りを楽しんでくれているようだった。
突然の思い付きですることになった紅葉狩りだけれども、ここに来て正解だったな、と思った。体の中に新鮮な空気を取り入れるよう、大きく息を吸って吐く。
木の根を口の先でつつくことをやめたメブキジカも、私の隣に戻ってくると同じように静かに息を吐いた。
あれこれ見ながら歩いていると、メブキジカの足が止まった。前方をじっと見ているのが気になって、その視線の先を辿る。
「あ、休憩所があるんだね。ちょっと休もうか」
メブキジカの視線の先には少し開けた場所があり、そこに小さな東屋が建っているのが見えた。「どうかな?」私が尋ねると、メブキジカは賛成だと頷いた。
東屋は長いこと雨風にさらされていたからか、少し古ぼけていた。木で作られたベンチに、小さく折り畳んだレジャーシートを敷いて座る。
メブキジカは私の前に来ると、トートバッグを鼻で指した。家での予想は外れたけれど、どうやら今度こそお菓子の催促らしい。茶色のポフレを手に取って、包装を破く。手のひらに乗せてそれを差し出すと、メブキジカは嬉しそうに食んだ。
ポケットからハンカチを取り出した私は、それをレジャーシートの隣に敷いた。いくつかのポフレの包装を破いてそれらを並べると、メブキジカはまた口を付ける。
その間に、自分も紅茶味とプレーン味のクッキーを齧る。大自然に囲まれて口にするお菓子は、何だかちょっとだけ特別に感じられた。
メブキジカがポフレに続いてきのみをいくつか食べた後に、私はおいしいみずのペットボトルを取り出した。
蓋を開け、左手の手のひらで器を作る。右手でおいしいみずのペットボトルを持ち、そこに中身をゆっくりと注ぐと、メブキジカは待ってましたと喉を鳴らして飲んだ。手のひらを往復する舌がくすぐったくて、思わず笑い声が漏れそうになってしまう。
肩を揺らして必死に我慢する私をよそに、メブキジカはゆっくりとおいしいみずを飲んだ。
メブキジカが私の手のひらから口を離したので、もう平気? とペットボトルを傾けるのを止めると、メブキジカは頷いた。満足そうな表情を浮かべ、自身の口の周りをぺろりと舐める。続けて、油断していた私の頬も舐めた。
「……こら! くすぐったいし、冷たい!」
驚いた私が声を上げると、メブキジカは体を揺らして笑ったのだった。
水筒とペットボトルの中身が減った分、軽くなったトートバッグを肩に掛け直す。東屋では一時間近くものんびりしてしまった。
日が落ちるまではまだまだ時間があるけれど、そろそろ帰ろうかと決めて、元来た道を辿る。
体を動かして疲れたはずなのに、家でノートパソコンの前に座っていた時よりも体は軽かった。隣を歩くメブキジカに、「ありがとう」と声を掛ける。彼は突然のお礼に、不思議そうな表情を浮かべた。
「外で気分転換をするきっかけをくれて。メブキジカが外に行こうって誘ってくれなかったら、こうして綺麗な紅葉を見ることも出来なかった訳だし……」
メブキジカはぱちぱちと何度か瞬きをした後、また胸を張って歩きだした。
それからたわいもない話をしながら山の麓にたどり着くと、メブキジカをボールに戻した。数分もしない内にやって来たバスに行きと同じく二十分ほど揺られ、家の最寄りのバス停に着くとまたメブキジカをボールから出す。
家に向かう道をちょっと遠回りして歩いているところで、太陽が傾き始めた。
空の彼方、地平線に沈んでいく夕陽が、世界を橙色と金色に染めていく。山も、幾重にも重なる木々の葉も、地面も、すべて。メブキジカの角の紅葉もまた、光に照らされて鮮やかさを増す。
「わあ……」
思わず感嘆する。私の声にメブキジカが振り返った。瞬間、濡れた瞳が夕陽を取り込んできらきらと輝く。
それは今日見た何よりも、美しく見えた。
綺麗だね、と自然と言葉が溢れる。目に映るすべての美しい色彩を目に焼き付けながら、私はメブキジカに寄り添った。
(チャレ!19でアンソロに寄稿させていただいたお話です)
ノートパソコンを閉じる前に、画面に表示された時刻を確認する。もうすぐで十時だ。
そういえば、戸棚に貰い物のお菓子があったっけ。それに、ロズレイティーのティーバッグも。紅茶でも淹れて一息つこうかな。そう、あれこれと考えながら立ち上がる。
すると、庭で微睡んでいたメブキジカが目を覚ましたのが見えた。リビングから庭へ続く大きな窓は閉められているというのに、メブキジカはこちらの気配に気付いたようだった。ぐうっと伸びをしてから立ち上がると、ふるりと頭を振って、こちらへ黒曜石のように美しい瞳を向ける。
「メブキジカ、おいで。一緒にお菓子でも食べない?」
白いタオルを一枚手に取った私は、窓を開けてメブキジカに声を掛ける。
庭とリビングとの境目までゆっくりやって来たメブキジカは、そこに敷かれた泥を落とすためのマットを何回か踏んだ後、右前足を上げた。
メブキジカの蹄に手を添えて、マットだけでは落としきれなかった蹄の裏の泥や草をタオルで拭き取る。次に左前足、それから私が一度庭に出て右後ろ足、左後ろ足と順番に汚れを落としていく。全ての蹄の汚れを落とし、最後に横っ腹についた草を払えば完了だ。
メブキジカは自分でも汚れが残っていないことを確認すると、角が窓に引っ掛かってしまわないように気を付けながら、頭を低くしてリビングに上がった。
「お菓子持ってくるね。ちょっと待ってて」
タオルを脱衣場の洗濯機の前に放り投げて、キッチンに向かった私は電気ケトルに水を入れる。沸騰するまでの間にメブキジカにお菓子を出そうと棚を漁っていると、後ろから服の裾を引っ張られた。
「うわっ、びっくりした。……どうしたの?」
驚いて振り返ると、メブキジカはすぐに咥えていた服の裾を離した。けれど、こちらをじっと見つめたままだ。
お菓子の催促かと思い、棚から取り出した可愛らしい缶の蓋を開けて、中身を手に取る。個別に包装された、色とりどりのポフレ。包装を破いて桃色のそれを差し出すと、彼は少し悩む素振りを見せた。
どうやらメブキジカの言いたいことは違ったらしい。
他の味がよかった? と、他の色をいくつか取り出して、手のひらに広げてみる。メブキジカはふるると鼻を鳴らすとそれらのポフレを口に咥えて、そのままリビングに向かってしまった。
電気ケトルの水はとっくに沸騰していたけれど、紅茶を淹れるのは後回しだ。ひとまずメブキジカの後を追う。
メブキジカは、リビングの椅子に掛けられたトートバッグに鼻先を突っ込んでいた。私の手のひらから持ち去ったポフレは全てあの中にしまったらしい。
一体どうしたのか、メブキジカの考えが掴めなくて私がただただ見つめていると、彼はテーブルの上に置いてあった空の水筒を口で咥えた。普通のものよりも少し細めの、空色の水筒。それを差し出され、物言いたげにじっと見つめられたところで、私は漸く「ああ」と頷くことができた。
今日の天気は気持ちのいい秋晴れ。十一月になるというのに、肌寒くはなく、むしろ少し暖かいくらいだ。メブキジカは、私に外に行こうと言いたいのだろう。
「おっけー。準備するからちょっと待っててね」
メブキジカから水筒を受け取ると、彼はやっと満足そうに頷いた。
外に出ると、やはり今日は過ごしやすい気候だと実感する。数日前まではかなり冷え込んでいたのが嘘のように暖かい。
隣を歩くメブキジカの足取りはいつもに比べ弾んでいる。特性「ようりょくそ」のお陰なのか、にほんばれ、というほどの日差しの強さではないけれど、太陽の光を浴びると体の調子がよくなるらしい。釣られて私の足取りも軽くなる。
歩く度に、メブキジカの蹄が地面を蹴る乾いた音と、トートバッグの中で水筒が立てるカラカラという音が重なった。
結局ロズレイティーを淹れるのは止めにして、水筒の中身はおいしいみずにした。トートバッグに入っているのは水筒と、メブキジカ用のおいしいみずのペットボトルだ。あとはいくつかのポフレと、彼の好みの味のきのみと、私のおやつの貰い物のクッキーを何枚かに、公園で休憩できるよう、レジャーシートを一枚。
ピクニックにもってこいの大きな公園は近所にいくつかあるけれど、どの公園に行くかは未定のまま、二人で並んで歩いていく。
「わあ。見て、ほら」
不意に目に留まったのは、遠くに見える鮮やかな色彩だった。山の木々が紅葉して、赤、橙、黄色、褐色に染まっているのだ。道の端で並んで足を止めると、メブキジカがまた私の袖を引く。今度はすぐに、彼の言いたいことが理解できた。
「せっかく外に出たんだし、行ってみる?」
あそこは低い山で、気軽に散歩ができるような山だ。ここ数年は全く行っていないけれど、前に一度行ったことがある。その時のことを思い出しながら尋ねると、メブキジカが嬉しそうに小さく跳ねた。
「何となく公園に向かってたけど、近くのバス停に行き先変更、ね」
確か近くのバス停から、あの山の麓行きのバスが出ていたはずなのだ。メブキジカがこくりと頷いたのを確認すると、すぐにバス停に向かった。
どうやら私の記憶は正しかったらしい。近くのバス停に着いてすぐに停留所の確認をしたのだけど、そこにはちゃんとあの山の麓のバス停の名前も書かれていたのだ。
少し待って到着したバスに乗り込み、窓から見える外の景色を楽しんでいると、あっという間に目的の山の麓に着いた。
私はまず、トートバッグからモンスターボールを取り出した。開閉スイッチを押すと赤い光に包まれて、メブキジカが姿を現す。
シキジカの頃なら問題はなかったかもしれないけれど、今や彼は立派なメブキジカ。大型のポケモンはバスの中ではボールに入れる決まりなのだ。
バスに揺られていたおよそ二十分ほどの間、ボールの中で大人しくしていたメブキジカは「やっと外か」となんて言いそうな顔で地面を踏み鳴らし、ふるりと角を振った。
「遠くから見ても綺麗だなって思ったけれど、近くで見るとより一層綺麗に見えるねえ」
擦り寄ってきたメブキジカの額を撫でながら、山を見上げる。
青い空を背景に、幾重にも重なる美しい色たち。時折、どこからかケンホロウのものと思われる鳥ポケモンの鳴き声が響く。
「……よし、歩いてみようか」
私の言葉にぴくりと耳を動かして、それから早く早く、と急かすように鼻を鳴らすメブキジカが可愛らしい。少し早足で遊歩道に向かった茶色の背中を、待ってと声を掛けて慌てて追いかけた。
「こういうの、紅葉狩りって言うんだよ」
山の中の遊歩道を歩きながら、メブキジカに話し掛ける。メブキジカは足を止めて、不思議そうな顔をした。自然と私の足も止まる。
「こうやって山だとか、野に出掛けてね。色づいた木々の紅葉を見て楽しむことを、紅葉狩りって言うの」
ふむ、と相槌を打つようにメブキジカが喉を鳴らした。続けて、私へ角を見せ付けるようにふるふると揺らす。
「ふふ、そうだね。私は家にいても紅葉が見て楽しめるんだよね」
──メブキジカは、季節によって姿を変える珍しい生態のポケモンだ。春には梅のような淡い桃色の花をつけて、夏にはケヤキのような葉が青々と生い茂る。秋にはこの通り見事な紅葉が、そして冬には白樺のように角が白く染まるのだ。
春にはお花見、なんて言いながら、庭先でメブキジカの角に咲いた花をずっと眺めていたことを思い出す。
そうだとも、と得意気な顔をしたメブキジカが、少し胸を張って歩き出す。その様子に思わず笑ってしまいながら、私は茶色の背を追った。
時折同じように紅葉狩りを楽しむ人とポケモンとすれ違うこともあったけれど、それでも山の中はとても静かだった。
二人で落ち葉の絨毯を踏み締める音と、トートバッグの中の水筒が立てる音と、鳥ポケモンの囀り、それと木々の葉が風にそよぐ音だけが聞こえる。
メブキジカは興味深そうに空気の匂いを嗅いで、時々落ち葉の山の中に鼻先を突っ込んだり、空を隠してしまうほどの紅葉を眺めたりと、この紅葉狩りを楽しんでくれているようだった。
突然の思い付きですることになった紅葉狩りだけれども、ここに来て正解だったな、と思った。体の中に新鮮な空気を取り入れるよう、大きく息を吸って吐く。
木の根を口の先でつつくことをやめたメブキジカも、私の隣に戻ってくると同じように静かに息を吐いた。
あれこれ見ながら歩いていると、メブキジカの足が止まった。前方をじっと見ているのが気になって、その視線の先を辿る。
「あ、休憩所があるんだね。ちょっと休もうか」
メブキジカの視線の先には少し開けた場所があり、そこに小さな東屋が建っているのが見えた。「どうかな?」私が尋ねると、メブキジカは賛成だと頷いた。
東屋は長いこと雨風にさらされていたからか、少し古ぼけていた。木で作られたベンチに、小さく折り畳んだレジャーシートを敷いて座る。
メブキジカは私の前に来ると、トートバッグを鼻で指した。家での予想は外れたけれど、どうやら今度こそお菓子の催促らしい。茶色のポフレを手に取って、包装を破く。手のひらに乗せてそれを差し出すと、メブキジカは嬉しそうに食んだ。
ポケットからハンカチを取り出した私は、それをレジャーシートの隣に敷いた。いくつかのポフレの包装を破いてそれらを並べると、メブキジカはまた口を付ける。
その間に、自分も紅茶味とプレーン味のクッキーを齧る。大自然に囲まれて口にするお菓子は、何だかちょっとだけ特別に感じられた。
メブキジカがポフレに続いてきのみをいくつか食べた後に、私はおいしいみずのペットボトルを取り出した。
蓋を開け、左手の手のひらで器を作る。右手でおいしいみずのペットボトルを持ち、そこに中身をゆっくりと注ぐと、メブキジカは待ってましたと喉を鳴らして飲んだ。手のひらを往復する舌がくすぐったくて、思わず笑い声が漏れそうになってしまう。
肩を揺らして必死に我慢する私をよそに、メブキジカはゆっくりとおいしいみずを飲んだ。
メブキジカが私の手のひらから口を離したので、もう平気? とペットボトルを傾けるのを止めると、メブキジカは頷いた。満足そうな表情を浮かべ、自身の口の周りをぺろりと舐める。続けて、油断していた私の頬も舐めた。
「……こら! くすぐったいし、冷たい!」
驚いた私が声を上げると、メブキジカは体を揺らして笑ったのだった。
水筒とペットボトルの中身が減った分、軽くなったトートバッグを肩に掛け直す。東屋では一時間近くものんびりしてしまった。
日が落ちるまではまだまだ時間があるけれど、そろそろ帰ろうかと決めて、元来た道を辿る。
体を動かして疲れたはずなのに、家でノートパソコンの前に座っていた時よりも体は軽かった。隣を歩くメブキジカに、「ありがとう」と声を掛ける。彼は突然のお礼に、不思議そうな表情を浮かべた。
「外で気分転換をするきっかけをくれて。メブキジカが外に行こうって誘ってくれなかったら、こうして綺麗な紅葉を見ることも出来なかった訳だし……」
メブキジカはぱちぱちと何度か瞬きをした後、また胸を張って歩きだした。
それからたわいもない話をしながら山の麓にたどり着くと、メブキジカをボールに戻した。数分もしない内にやって来たバスに行きと同じく二十分ほど揺られ、家の最寄りのバス停に着くとまたメブキジカをボールから出す。
家に向かう道をちょっと遠回りして歩いているところで、太陽が傾き始めた。
空の彼方、地平線に沈んでいく夕陽が、世界を橙色と金色に染めていく。山も、幾重にも重なる木々の葉も、地面も、すべて。メブキジカの角の紅葉もまた、光に照らされて鮮やかさを増す。
「わあ……」
思わず感嘆する。私の声にメブキジカが振り返った。瞬間、濡れた瞳が夕陽を取り込んできらきらと輝く。
それは今日見た何よりも、美しく見えた。
綺麗だね、と自然と言葉が溢れる。目に映るすべての美しい色彩を目に焼き付けながら、私はメブキジカに寄り添った。
(チャレ!19でアンソロに寄稿させていただいたお話です)