Hanada
 この町の外れには、ひっそりと佇む一軒の古びたアパートがあった。いつからそこに建っているのかは分からないが、古ぼけた木造で少し傾いているアパートの様子からそれが随分と前に建てられたことだけは伺える。アパートはいつも周りを囲むように生い茂る木々の影も相俟って酷くおどろおどろしい雰囲気を放っていた。
 そんなアパートなのだからさっさと取り壊してしまえという人はもちろんたくさんいたのだが、ある出来事をきっかけに一切そんなことを誰も言わなくなってしまった。随分と前のこと、古びたアパートを取り壊すため、事前にアパートの状態を調べようと立ち入った業者達を何と数々の怪奇現象が襲ったのである。どこからともなく聞こえる笑い声、ちかちかと現れては消える謎の光、そして数々の奇妙な物音。それらを体験した業者達は、顔を真っ青にしてアパートから逃げ出したのだ。

 最初はまさかそんなことがある訳ないと町の人間達も相手にしなかったが、それを聞いた少年達がアパートに肝試しに行けばアパートの入り口の隅に置いてあった錆びた芝刈り機が動いて追い回し、アパートの前を通った小さな子供は青白い炎を見たとも言う。外れてしまった窓からは凍えるような冷気が突然吹いたという話しもあるし、少しずつ増えだした怪奇現象の噂はあっという間に町へと広がった。

 そしてそれ以来そのアパートは幽霊が出ると噂になり、誰も近付かなくなってしまったのである。


●●●


 が仕事でくたくたに疲れて家に帰って来てみれば、玄関の扉を開けた先に少しくたびれた扇風機が無造作に転がっていた。扇風機が床に落とす影が何処か寂しさを感じさせる。──これはもうそろそろ使わないから、と、ついこの間物入れの奥にしまった物である。それならばどうしてその扇風機がここに転がっているのだろうか。答えは至って簡単だった。の家にいつからか時々遊びに来るようになったロトムが引っ張り出して来たのである。

「ロトム、あのね、いるんでしょう?遊んでもいいけれど、散らかさないでって言ったの、忘れたの?」

 靴を脱ぎながらがそう言うと、どこかでひゅうん、とロトムが鳴いた。が困っている様子を見て笑ったのだ。リビングへとやって来て荷物を置いたが小さなソファに腰を落とすと、冷蔵庫ががたがたと揺れる音がした。恐らくロトムはお腹を空かせているのだろう。全く、ゴーストタイプを持っている上に姿を消したり壁を擦り抜けたりとお化けみたいなくせしてお腹が空くなんて、そう思わず笑ってしまいながらもは先程置いた荷物からある物を取り出した。

「ほら、マトマの実。ちゃんと買ってきたから」

 途端、冷蔵庫ががたがたと揺れるのを止めるとぴゅう、と小さく鳴き声を上げてロトムが冷蔵庫から飛び出して来た。そしての周りをくるりくるりと落ち着きのない様子で回った後、の手にあるマトマの実に齧り付こうとする。

「だめ。扇風機を片付けてからあげる」

 ひょい、とはロトムからマトマの実を遠ざける。するとロトムは慌てた表情を浮かべてから、ぴゅうんと鳴いて玄関に姿を消した。そして数秒後にはスピンロトムにフォルムチェンジをした姿でリビングに現れる。それからの周りを先程のように回ると、扇風機があった物入れへと姿を消したのだった。




「約束通り、食べていいよ」

 物入れに扇風機を戻し元の姿に戻って再びリビングへとやってきたロトムにがマトマの実を差し出すと、ロトムは待っていましたと言わんばかりに眼を輝かせ、の手のひらにあるマトマの実に齧り付いた。ぴゅうぴゅうと鳴いたロトムは満足そうだ。このの前で暢気にマトマを実を齧り、ふにゃふにゃと気の抜けた顔で笑っているロトムこそ、例のアパートの幽霊騒ぎの犯人であった。それをは勿論知っている。ロトムがこの家に遊びに来るようになったきっかけも、そのアパートの目の前で起きたからだ。それは、一ヶ月ほど前に遡る。


●●●



 ある日の昼下がり、偶然にも例のアパートの傍を買い物帰りのが通ったことがあった。いつもなら買い物をしてもこのアパートの傍は不気味だからと通らないのだが、この日は聊か買い物をし過ぎてしまったため、近道をする為にこのアパートの傍を通る道を使って早く家に帰りたかったのだ。が重い買い物袋をしっかりと持ちながら、木々で薄暗い道を歩いていると少しずつ例のアパートが見えてくる。アパートをちらりと見たは、さっさと通り過ぎてしまおうと考えた。大丈夫大丈夫、幽霊なんていないんだから…そう自分に言い聞かせるようにしながらの足は少しずつ速度を増していく。そしてもう少しでアパートの目の前に差し掛かる、という所で、不意に風が強くざわめいた。思わずは足を止めて目を瞑る。そして砂でも入ったのだろうか、少しちくちくとする目を擦り、が目を開けた時だった。

 あまり視界に入れないようにしていた例のアパートを、はつい見てしまったのである。木造の少し傾いたアパートの、二階の窓は外れてしまっていた。そしてその外れた窓の奥でゆらゆらと不気味に揺れる青白い光を、は目にしてし まったのだ。

「あ……、や、やだ……」

 驚きと恐怖で立ち尽くし、言葉にならない声を発しての身体が震えた。どさりと重い音を立てての手から買い物袋が落ちる。その時、青白い光がその音に反応したのか、ゆらりと一際大きく揺らめいた。視線を逸らせずにその青白い光を見つめたままだったは、どうしよう、と小さく後ずさる。逃げ出したいのに、思うように足が動かないのだ。そうもしている間にその青白い光はゆらりともう一度大きく揺らめくと、驚くことに窓から飛び出してきたのだ。

「いやっ!来ないで!」

 恐怖で目を瞑ったが漸く振り絞った声で叫ぶ。しかし、そのまま暫くしても何も起こらない。こちらに来て何かするのではないかと思っていたは、恐る恐る目を開ける。すると、そこにいたのは恐ろしい幽霊のような恐ろしいものとは正反対の、可愛い見た目の小さなポケモンだった。オレンジ色の身体が、薄い水色の電気のような光に包まれている。見たことのないポケモンの姿に驚いて唖然とするを余所に、そのポケモンはの目の前でけらけらと笑った。その様子に少しだけ緊張が解れたは、小さな声でそのポケモンに話しかける。

「あの…、あなたが、幽霊の正体?」

の言葉にこてんとそのポケモンは首を傾げたかと思うと、にやりと悪戯っ子のような表情を浮かべた。どうやらその通りのようだ。

「それにしても、どうして急に私の前に姿を現したの?」

 続いてが話しかけると、そのポケモンははっとしたような顔をし、それからの落とした買い物袋に眼を向けた。落とした時の衝撃で、紙袋に入れられた小さなパンなどが買い物袋から飛び出してしまっている。慌ててそれらをが袋に戻していると、そのポケモンは袋の一番上に入れていたがために袋から一番離れた所に転がってしまっていたマトマの実に近寄った。マトマの実以外を袋へと戻したは、マトマの実を拾い上げるとそのポケモンとマトマの実を二、三度程見比べて、それからマトマの実をそのポケモンへと差し出した。ポケモンの眼が分かり易いほどに輝きを増し、は笑みを浮かべる。

「もしかして、これが欲しかったの?」

 きらきらと瞳を輝かせながら素直に頷くポケモンに、は思わず笑った。

「これね、買い物をした時におまけでもらったの。良かったらあなたにあげる」

 の言葉に、驚いたようにそのポケモンが眼を瞬かせる。そして良いのかと確認するように首を傾げた。

「いいの。私、トレーナーじゃないから自分のポケモンも持ってないし」

 それを聞いたポケモンはぴゅうんと鳴くと、の手の上で艶やかに光るマトマの実に齧りついたのだった。それ以来、噂の幽霊の正体を知ったはよくアパートの傍を通るようになり、またそのポケモンもが通ると決まって姿を現し、更にはの家にまで時々遊びに来るようになったのである。そのポケモンがロトムというポケモンだということを知ったのは、すぐのことだった。


●●●



 ロトムがの家に遊びに来るようになった当初、勝手に家電製品の中に潜り込んでは遊び回り、壁を自由に擦り抜けて突然姿を現し、お腹が空いたからと食べ物をねだるのにはも驚いたが、今ではすっかり慣れてしまっていた。悪戯好きで時々我侭を言ったりすることもあるが、それでもロトムが時々遊びに来るのが楽しみになっていたし、ロトムはロトムでの家に遊びに来るのが楽しいらしく、と一緒にいる時はよくけらけらと楽しそうに笑っていた。これだけ仲良くなったとロトムだが、には未だに分からないことが一つだけある。ロトムがどうしてアパートにずっと独りで住み続けているのかということだ。一度だけロトムにどうしてロトムはあのアパートに住んでいるのかと尋ねたことがあったが、その時ロトムは少し困ったように笑ったのでは何だか触れてはいけないようなことを聞いてしまったのだと思った。ただ単にあの薄暗い雰囲気を、ゴーストタイプを持ち合わせるロトムが気に入っているだけかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。だが、それ以来ロトムがあの古びた薄暗いアパートに住み続ける理由をは尋ねることはなかった。

 いつの間にか二つ目のマトマの実を食べ終えたロトムが、ぼうっとしていたをきょとんとした眼で見つめていた。それには気が付くと、別に何でもないよと笑う。するとロトムはひゅうんと鳴いての周りをくるくると回った。


●●●



 の家にロトムが遊びに来るようになってから数ヶ月が経ったある日のことだった。が町で買い物をしていると、ある話が耳に入ったのだ。

「ねえ、ついにあのアパートが取り壊されるって本当?」
「そうみたいね。でも、ほら……、幽霊が出るって噂じゃない?大丈夫なのかしら」
「この間その幽霊についての噂を聞いたんだけど……昔、あのアパートに住んでいた住人に捨てられたポケモンがいたらしいんだけれども、そのポケモンが幽霊の正体なんじゃないかって」
「やだ、何それ」
「それがね、アパートで見たこともないようなポケモンを見たって人が結構いるみたいなのよ。それで、今度そのポケモンを捕獲しに行くんですって。それで、そのポケモンが上手く捕獲できたらアパートを取り壊すみたいよ」

 そんなことを二人組みの女性が歩きながら話していたのである。それを聞いたは、思わず立ち尽くしていた。頭の中で、いつだったか「どうしてロトムはあのアパートに住んでいるのか」と尋ねた時の、困ったように笑ったロトムの顔が思い浮かんだ。あの二人組みの話の真偽も、例えそれが事実だとしても捨てられたポケモンがロトムなのかも分からないが、もしそれら全てが本当だったとしたら。ロトムは昔トレーナーに捨てられて、それからずっとあのアパートに棲み続けているのではないか。それで、アパートを取り壊そうとした業者達や、アパートに踏み入ろうとした少年達を驚かしたのではないだろうか。そこまで考えたは、はっと息を呑んだ。そういえば、先程の二人組みの話では、今度そのポケモンを捕獲しに行くと言っていたことに気がついたのである。それを思い出したはいてもたってもいられず、急いで家へと向かって走り出した。

 買い物からが帰ってくると、家に入った途端にの背後から急にロトムが現れたのでは小さく悲鳴を上げた。それからロトムを見ると、ほっと胸を撫で下ろす。

「もう!驚かさないでよ……」

 ロトムはの言葉を聞いているのかいないのか、悪戯が成功した小さな子供のように笑っている。それを見たは溜息を吐いたが、すぐに真剣な表情を浮かべると、ロトムへと目を向ける。そして少しの間を置くと、は口を開いた。

「ロトム、アパートが取り壊されちゃうって話、本当?」

が尋ねると、ロトムは少し寂しそうに笑った。やはり、アパートが取り壊されてしまうことは事実だったのである。

「今日、偶然町で聞いたんだけれど、アパートの幽霊の正体であるポケモンを捕まえるって話が出てるみたい……」

 ロトムはそれを聞くと、その話を知っていたかのように、しかし困ったようにひゅうひゅうと鳴いた。何とも言えないような気持ちになってしまったは俯く。さすがにロトムにトレーナーに捨てられたのかなどとは聞けないが、恐らくそうなのだろう。それだけでも十分に酷い話だが、その上住処も奪われて挙句捕獲しようなんて話まで出ているのだ。あんまりな話だ、とは下唇を噛む。そして、自分には何が出来るだろうと考えた。ロトムとの出会いは偶然だったのだとしても、今では大切な友達だ。そんなロトムに出来ることを考えて、は勢い良く顔を上げた。俯いていたが突然顔を上げたので、驚いたようにロトムがぴゃっと声を上げる。

「……ロトムのこと、私は大切な友達だと思ってる。だからロトムが傷ついたりする所は見たくないと思う」

 ロトムはの言葉を聞きながら、の目を真っ直ぐに見つめている。

「それでね、ロトムさえ良ければ、私の家に住んだらどうかな?あのアパートがロトムにとって大切な場所なんだってことも分かるけれど、アパートに住み続ける限りあのアパートをどうにかしようという人達との衝突も避けられないし……」

 そこまで言うと、は自分を見つめるロトムを見つめ返した。ロトムは驚いたように眼をぱちぱちと瞬かせ、それからううんと迷ったように唸り、そして暫くしてからいつもの笑顔で笑ったのだった。


***


 ロトムが住処を離れたことで、ロトムによる怪奇現象がすっかり収まったアパートの取り壊しは、驚く程の速さで進められた。数日であっという間に元の面影を残さず更地になってしまったのである。ずっと不気味だったアパートが無くなって町の人間達は喜ぶ一方、どうして突然怪奇現象が収まったのかと不思議そうにしていたが、その様子を見たロトムは可笑しそうに笑っていた。

「ここ、周りの木も茂みも無くなって随分と明るくなったから、公園が出来るみたい」

 町への買い物帰り、ロトムと一緒に歩いていて元アパートのあった場所を通ったは、足を止めるとロトムに話しかけた。ロトムは町でに買ってもらった辛い味の飴玉を舐めながら首を傾げる。

「その公園が出来たら、一緒に来てみようか」

 の提案にロトムは頷くと、にこりと笑う。それからアパートの入り口があった辺りまでふわふわと移動して空を見上げたかと思うと、ロトムは突然姿を消してしまった。突然ロトムが姿を消してしまったので、ロトム?と呼びかけながら不思議そうにが辺りを見回すと、ロトムはの目の前に姿を現して、べえ、と舌を出す。

「うわっ!」

 ロトムの「おどろかす」に怯んだが声を上げると、ロトムはけらけらと笑った。そんなロトムの様子に、このいたずらぼうずめ、そうが笑うと、ロトムはぴゅうんと鳴いてからより一層笑い声を上げる。そしていつものようにの周りをニ、三度程回り、ぱちぱちと機嫌良さそうに身体を光らせて見せたのだった。



20131223
企画サイト「ばあ!」様へ提出させて頂いたものです。
素敵な企画に参加できたことに感謝しています!