もう冬は終わるというのに、未だ多く残る雪を踏みしめてファイヤーは地上に降り立った。小さな火の粉が風に舞う花弁のようにはらはらと白い絨毯の上に落ち、火の粉に触れた部分の雪を音も無く溶かす。ファイヤーは二、三度程その場で地面の雪を踏み締めると、ふるりと首を震わせてから雪の上を歩き出した。
ファイヤーが棲み処にしている山は、豊かな自然のお陰か多くのポケモン達が生息している。そしてそのポケモン達は、冬が終わり春がもうすぐ訪れるということを肌で感じ取っているのか、どことなくそわそわとしていた。
冬の間は地面に掘った穴の中で大人しく丸くなっていたオタチやオオタチも地上に顔を出し、冬眠していたリングマも眼を覚ましている。樹の上では、気の早いケンホロウが喉を震わせて春のうたを歌っていた。
冬の間には見られなかったそれらの光景を楽しむかのように、微かに忍び寄る春の足音に耳を傾けながらファイヤーは木々の間を進んで山を下っていく。目印も何もない獣道を真っすぐに目的の場所へと向かうその様子は、まるで見えない何かに導かれているようだった。
そうしてどんどん山を下っていくと、軈てファイヤーは足を止めた。ファイヤーが足を止めた場所から数十メートル先に、人影が見えたからだ。その姿を確認すると、ファイヤーは首をすっと伸ばして嘴を僅かに開き、一度だけ鳴き声を上げた。
するとその鳴き声が耳に届いたのか、そこに立っていた人物が顔を上げる。その人物は、ファイヤーの姿を目に捉えると嬉しそうに微笑んだ。
「ファイヤー!」
人間に名を呼ばれると、ファイヤーは呼び声に応えるようにもう一度鳴く。そしてファイヤーの元へと人間が駆け寄ると、ファイヤーは首を垂れて人間と視線を交わらせた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
そう口にしてファイヤーの頬に手を添えた人間の名前は、だ。
○○○
とファイヤーが出逢ったのは、もう三年も前の秋の終わりのことだ。
ポケモンの生態を調査していたはその日、一つのリュックを背にこの山へと立ち入っていた。
秋の紅葉の色から冬の落ち葉の色へと毛色を変えたシキジカの様子を写真に撮り、地面に足跡を見つければ大きさを計り、それも写真に収める。鳥ポケモンの抜け落ちた羽を拾い、またメモを書く、などのこの山に棲むポケモン達の情報の断片を集める作業を繰り返していると、気が付いた時には普段立ち入る場所よりもずっと上の方へと登って来てしまっていた。
調査に夢中になるとすぐ周りが見えなくなってしまう、と自分に呆れたように溜め息を吐くと、はすぐに山を下りようと決めた。しかしその時不運にも、突然雨が降り出したのだ。
慌てたは雨を凌げるような場所を探して走る。そうしてやっと見つけた小さな洞窟に滑り込む頃には、雨は酷い土砂降りになっていた。
「……困ったなあ」
この酷い雨では当分ここから出られそうにないな。膝を抱えて座ったは外を見ながらそんなことを思った。山の天気は変わりやすいというが、それ故にいつ止むか分からないのだ。
は背負っていたリュックからタオルを取り出すと、濡れてしまった腕や足を拭いた。それから自分の手持ちであるポケモンが入ったボールをそっと撫でる。
山に入れば当然野生のポケモンとバトルになることもあり、今日も何度か戦闘をしていた。その為手持ちのポケモン達は体力が減っている。出来れば快適なボールの中で、少しでも体を休めてほしいと思ったのだ。
外の雨は未だにその勢いが弱まらず、地面を激しく叩いている。この様子なら暫くは止みそうにないや。は溜め息を吐くと膝に顔を埋めた。
朝から山を登っていたからか、途端に疲れがどっと押し寄せて、そのままは眠りに落ちてしまった。
はっと意識を取り戻した時には、洞窟の外は薄暗くなっていた。薄暗くなっている洞窟の外を見たは、今日はこのまま野宿だなとぼんやり考える。薄暗い山道を下るのは危険だし、何より雨は未だに止んでいないようで、洞窟の外からはさあさあと雨音が響いているのだ。
は一度膝を抱えるのを止めると、凝り固まってしまった体を解すように伸びをした。そして心細そうな顔で洞窟の外を再び見つめる。
いつもよりもずっと上の方へ登ってしまい、更には突然の雨に驚いて走ったので自分のいる位置は分からず、おまけに雨まで降っていて動くことの出来ないという状況が、の心に暗い影を落としてしまったのだ。
そうして沈んだ表情で外を見ていただったが、不意に目を大きく見開くと勢いよく立ち上がった。雨の降る暗い空を、何か眩いものが飛んでいるのを目にしたからだ。
それはまるで真昼の太陽のように眩しく、暗い空を赤く照らした。は隣に置いていたリュックを背負うと、恐る恐る洞窟の外に踏み出す。雨は先程よりも更に弱まっていた。
その時丁度、眩い「何か」が、が今いる場所よりも更に上の方へと降りたのが見えた。
霧雨の中、薄暗い山道を歩き回るのは危険だということは分かっていた。それでもはそれを追わずにはいられない。にとってこの薄暗い闇の中で輝くその「何か」は、まるでたった一つの希望のように見えたのだ。
眩いそれは、遠くからでもよくどこにいるかがはっきりと見えた。陽炎のようにゆらゆらと揺れるその光を、必死には追いかける。泥濘に足を取られて転びそうになり、木の枝や草で切り傷を作っても、はひたすらにその何かの元へと足を動かした。
そうして漸く追いついた先にいた姿に、は石のように固まってしまった。何故ならそこにいたのは、なんと伝説のポケモン、ファイヤーだったのだ。
少し開けた場所に立ち、ファイヤーはじっとのことを見つめていた。その顔はと同じく驚きに満ちている。
「あ……!」
この山に棲むポケモンの生態の調査は何度もしたことがあったが、伝説のポケモンであるファイヤーがいるとは知らなかったはその驚きのあまり言葉を失った。ファイヤーは変わらずにのことを見つめている。
そうして見つめあって数分、の出方を伺うようにファイヤーが首を傾げると、は弾かれたように口を開いた。
「あっ、あの!私……その、道に迷っちゃって……仕方なく洞窟で雨宿りをしていたら、眩しい光が飛んでいくのが見えたから、……その、思わず追いかけてきただけで……」
一体何に対して言い訳をしているのだろう、と、どこか他人事のようには考えた。それでも、もしこのファイヤーに敵だと思われたら嫌だ。そう思うと勝手に口が動く。
「別にあなたを捕まえようとか思った訳じゃないの。そもそもこの山にファイヤーが棲んでいるなんて知らなかっ……くしゅん!」
雨に濡れた上に夜の山の空気で冷えたのか、が思わずくしゃみをするとファイヤーが眼を丸くする。それから驚くことに、ファイヤーは一歩、二歩、とゆっくりとの元へと歩み寄った。
「わ、傍にいるだけで温かい……ね」
ファイヤーが目の前に立っただけで、まるで太陽の光に照らされたようにの体は熱を取り戻した。そのあまりの温かさににが驚いていると、ファイヤーは眼を細める。
それからまるでついて来い、とでも言うかのように一声だけ静かに鳴くと、ファイヤーはに背を向けて歩き出してしまった。燃える炎の尾羽が、まるで道標のように揺れる。は慌ててその後を追った。
ファイヤーの後を追って辿り着いたのは、先程の洞窟よりも幾分広い洞窟だった。ファイヤーは洞窟の最奥でそっと腰を下ろす。はどうするか悩んだが、洞窟の入口のすぐ傍に腰を下ろすと、ファイヤーを見つめた。
「あの……」
が口を開くと、ファイヤーは小さく欠伸をしたようだった。薄く開かれた嘴の隙間から、ちろちろと火の粉が舞う。それを見たは、釣られて欠伸を漏らすといつの間にか眠りに就いてしまった。
が目を覚ますとファイヤーは既に眼を覚ましており、洞窟の外に立っていた。ファイヤーの背後に広がる空は真っ青に晴れている。
ファイヤーはが目を覚ましたのを確認すると、昨夜のようについて来い、とでも言うかのように一声だけ静かに鳴いた。は体をぐっと伸ばすと、リュックを手に慌ててその後を追う。
ファイヤーは時々後ろを振り返り、がついて来ているかを確認しているようだった。はで明るいとは言えどファイヤーを見失わないように、道標のようなファイヤーの燃える尾羽を必死に追う。
そうして長いこと歩き続けると、漸くの見知った道まで辿り着いた。
「あっ、ここからなら帰り道が分かるかも……」
が嬉しそうにファイヤーに目を向けると、ファイヤーはこくりと頷いてから翼を広げた。
「本当に、ありがとう……!」
が言うや否やファイヤーは舞い上がり、はらはらと美しい火の粉が散った。そうして今にも去ろうとするファイヤーを、は必死に呼び止める。ファイヤーは一体どうしたのかとを見下ろした。
は少し迷った後、意を決したように口を開いた。
「その、春になったらまた来てもいいかな?私、あなたのことをもっと知りたいの……!」
今度はちゃんと迷わないように気を付ける、そう付け足すと、ファイヤーは微かに笑ったようだった。そして力強く翼を羽ばたかせると、今度こそ山の上へと向かって飛び立つ。その際に上げた美しい鳴き声は、の耳に長い間余韻を残していた。
ファイヤーがを助けたのは、が密猟者などの山に害を及ぼす者ではないと分かったからだった。
とファイヤーが視線を交わらせたあの時。ファイヤーは眼の前に姿を見せた者が密猟者だったら、容赦なく消してしまおうと考えていた。
しかし眼の前に現れた人間は泥だらけでひどく泣きそうな顔をしており、とても密猟者には見えない。何より敵意は微塵も感じられず、それどころかすがるような目をしていた。
どうやら密猟者では無さそうだ。そう判断したファイヤーは、のことを助けたのだ。
そうしてファイヤーに助けられたはあの別れの時の言葉通り、春になると再びあの山を訪れた。今度は道に迷うことなくあのファイヤーと出逢った場所まで辿り着くことが出来たは、そこでファイヤーの名を呼ぶ。
すると暫くして力強い羽ばたきが聞こえ、あの日と変わらない姿のファイヤーがの前に舞い降りた。
自分を呼ぶのは誰かと思い姿を現したファイヤーだったが、の姿を眼にすると驚いたように眼を見開いた。まさか本当に来るとは思っていなかったのだ。
「こんにちは、ファイヤー」
が笑うと、釣られたようにファイヤーも思わず笑ってしまった。
そうしてこの日から、は前にも増してこの山を訪れるようになったのだ。ファイヤーも最初は何度もこの場所を訪れるに呆れた様子を見せていたが、次第に心を開くとがやって来るのをどことなく心待ちにするようになった。そして今では山の上から山へ入るの姿を眼にすると、途中まで迎えに来るようにまでなっている。
○○○
ファイヤーに顔を覗き込まれていることに気が付くと、ははっとした様子を見せた。二人が初めて出逢った場所に向かう途中、ファイヤーと出逢った時のことを思い出していたからか、ぼうっとしてしまっていたようだ。
「ちょっと、ファイヤーと出逢った時のことを思い出していたの」
二人が初めて出逢った場所まで辿り着き、がそう言うとファイヤーは首を傾げた。それから大きく翼を広げると、へと眼を向ける。は大きく深呼吸をすると、頷いた。
はこの山の豊かな自然も、そこに棲むポケモン達の生き生きとした姿も大好きだったが、中でも一等好きなのは、冬の終わりのファイヤーの羽ばたきによってもたらされる春が始まりを告げる光景だった。
その美しい光景を初めて見た時は、知らずの内に思わず涙を流した程だ。
ファイヤーはが頷いたのを確認すると、力強く舞い上がる。橙色の翼が美しく燃え上がった。そしてその翼が羽ばたく度に生み出す、夜空さえも赤く染めるような熱が雪を溶かしていく。ある地方ではファイヤーが姿を現すと春が訪れるという伝承があるが、伝承そのままの光景に、は息を呑まずにはいられなかった。
雪が溶けて生まれた雪解け水は山肌を伝って流れてゆき、長い冬の寒さで凍えていた大地がファイヤーの羽ばたきによって温もりを取り戻していく。
白い雪に埋もれて姿を隠していた地面が顔を見せると、野生のポケモン達がそこかしこから姿を現した。潤った土の香りに眼を閉じるゴマゾウや、すっかり春の花の色に毛色を変えたシキジカの群れが地面から芽吹いた新芽を口にして感嘆の声を上げている。
「……この光景を見るのは初めてじゃないけれど、やっぱり感動しちゃうね」
暫くして、山が春を迎える準備を始めたことを確認したファイヤーがの隣に降り立つと、瞳を輝かせたがそう呟いた。ファイヤーがその言葉に同意するように頷くと、はファイヤーへとその輝く瞳を向ける。
「ファイヤー、こんなに素敵な景色を見せてくれてありがとう」
地面は新芽の緑によってそこら中が彩られている。あと数週間もすれば花が咲き、緑だけじゃない鮮やかな色彩でこの山も賑わうだろう。
毎年見ているその光景を思い出しながら、自分の隣で一足先に咲いた花のような笑顔を浮かべるに、ファイヤーも釣られて笑った。
春を呼ぶ声/20150929
企画:二人の足跡へ提出
ファイヤーが棲み処にしている山は、豊かな自然のお陰か多くのポケモン達が生息している。そしてそのポケモン達は、冬が終わり春がもうすぐ訪れるということを肌で感じ取っているのか、どことなくそわそわとしていた。
冬の間は地面に掘った穴の中で大人しく丸くなっていたオタチやオオタチも地上に顔を出し、冬眠していたリングマも眼を覚ましている。樹の上では、気の早いケンホロウが喉を震わせて春のうたを歌っていた。
冬の間には見られなかったそれらの光景を楽しむかのように、微かに忍び寄る春の足音に耳を傾けながらファイヤーは木々の間を進んで山を下っていく。目印も何もない獣道を真っすぐに目的の場所へと向かうその様子は、まるで見えない何かに導かれているようだった。
そうしてどんどん山を下っていくと、軈てファイヤーは足を止めた。ファイヤーが足を止めた場所から数十メートル先に、人影が見えたからだ。その姿を確認すると、ファイヤーは首をすっと伸ばして嘴を僅かに開き、一度だけ鳴き声を上げた。
するとその鳴き声が耳に届いたのか、そこに立っていた人物が顔を上げる。その人物は、ファイヤーの姿を目に捉えると嬉しそうに微笑んだ。
「ファイヤー!」
人間に名を呼ばれると、ファイヤーは呼び声に応えるようにもう一度鳴く。そしてファイヤーの元へと人間が駆け寄ると、ファイヤーは首を垂れて人間と視線を交わらせた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
そう口にしてファイヤーの頬に手を添えた人間の名前は、だ。
とファイヤーが出逢ったのは、もう三年も前の秋の終わりのことだ。
ポケモンの生態を調査していたはその日、一つのリュックを背にこの山へと立ち入っていた。
秋の紅葉の色から冬の落ち葉の色へと毛色を変えたシキジカの様子を写真に撮り、地面に足跡を見つければ大きさを計り、それも写真に収める。鳥ポケモンの抜け落ちた羽を拾い、またメモを書く、などのこの山に棲むポケモン達の情報の断片を集める作業を繰り返していると、気が付いた時には普段立ち入る場所よりもずっと上の方へと登って来てしまっていた。
調査に夢中になるとすぐ周りが見えなくなってしまう、と自分に呆れたように溜め息を吐くと、はすぐに山を下りようと決めた。しかしその時不運にも、突然雨が降り出したのだ。
慌てたは雨を凌げるような場所を探して走る。そうしてやっと見つけた小さな洞窟に滑り込む頃には、雨は酷い土砂降りになっていた。
「……困ったなあ」
この酷い雨では当分ここから出られそうにないな。膝を抱えて座ったは外を見ながらそんなことを思った。山の天気は変わりやすいというが、それ故にいつ止むか分からないのだ。
は背負っていたリュックからタオルを取り出すと、濡れてしまった腕や足を拭いた。それから自分の手持ちであるポケモンが入ったボールをそっと撫でる。
山に入れば当然野生のポケモンとバトルになることもあり、今日も何度か戦闘をしていた。その為手持ちのポケモン達は体力が減っている。出来れば快適なボールの中で、少しでも体を休めてほしいと思ったのだ。
外の雨は未だにその勢いが弱まらず、地面を激しく叩いている。この様子なら暫くは止みそうにないや。は溜め息を吐くと膝に顔を埋めた。
朝から山を登っていたからか、途端に疲れがどっと押し寄せて、そのままは眠りに落ちてしまった。
はっと意識を取り戻した時には、洞窟の外は薄暗くなっていた。薄暗くなっている洞窟の外を見たは、今日はこのまま野宿だなとぼんやり考える。薄暗い山道を下るのは危険だし、何より雨は未だに止んでいないようで、洞窟の外からはさあさあと雨音が響いているのだ。
は一度膝を抱えるのを止めると、凝り固まってしまった体を解すように伸びをした。そして心細そうな顔で洞窟の外を再び見つめる。
いつもよりもずっと上の方へ登ってしまい、更には突然の雨に驚いて走ったので自分のいる位置は分からず、おまけに雨まで降っていて動くことの出来ないという状況が、の心に暗い影を落としてしまったのだ。
そうして沈んだ表情で外を見ていただったが、不意に目を大きく見開くと勢いよく立ち上がった。雨の降る暗い空を、何か眩いものが飛んでいるのを目にしたからだ。
それはまるで真昼の太陽のように眩しく、暗い空を赤く照らした。は隣に置いていたリュックを背負うと、恐る恐る洞窟の外に踏み出す。雨は先程よりも更に弱まっていた。
その時丁度、眩い「何か」が、が今いる場所よりも更に上の方へと降りたのが見えた。
霧雨の中、薄暗い山道を歩き回るのは危険だということは分かっていた。それでもはそれを追わずにはいられない。にとってこの薄暗い闇の中で輝くその「何か」は、まるでたった一つの希望のように見えたのだ。
眩いそれは、遠くからでもよくどこにいるかがはっきりと見えた。陽炎のようにゆらゆらと揺れるその光を、必死には追いかける。泥濘に足を取られて転びそうになり、木の枝や草で切り傷を作っても、はひたすらにその何かの元へと足を動かした。
そうして漸く追いついた先にいた姿に、は石のように固まってしまった。何故ならそこにいたのは、なんと伝説のポケモン、ファイヤーだったのだ。
少し開けた場所に立ち、ファイヤーはじっとのことを見つめていた。その顔はと同じく驚きに満ちている。
「あ……!」
この山に棲むポケモンの生態の調査は何度もしたことがあったが、伝説のポケモンであるファイヤーがいるとは知らなかったはその驚きのあまり言葉を失った。ファイヤーは変わらずにのことを見つめている。
そうして見つめあって数分、の出方を伺うようにファイヤーが首を傾げると、は弾かれたように口を開いた。
「あっ、あの!私……その、道に迷っちゃって……仕方なく洞窟で雨宿りをしていたら、眩しい光が飛んでいくのが見えたから、……その、思わず追いかけてきただけで……」
一体何に対して言い訳をしているのだろう、と、どこか他人事のようには考えた。それでも、もしこのファイヤーに敵だと思われたら嫌だ。そう思うと勝手に口が動く。
「別にあなたを捕まえようとか思った訳じゃないの。そもそもこの山にファイヤーが棲んでいるなんて知らなかっ……くしゅん!」
雨に濡れた上に夜の山の空気で冷えたのか、が思わずくしゃみをするとファイヤーが眼を丸くする。それから驚くことに、ファイヤーは一歩、二歩、とゆっくりとの元へと歩み寄った。
「わ、傍にいるだけで温かい……ね」
ファイヤーが目の前に立っただけで、まるで太陽の光に照らされたようにの体は熱を取り戻した。そのあまりの温かさににが驚いていると、ファイヤーは眼を細める。
それからまるでついて来い、とでも言うかのように一声だけ静かに鳴くと、ファイヤーはに背を向けて歩き出してしまった。燃える炎の尾羽が、まるで道標のように揺れる。は慌ててその後を追った。
ファイヤーの後を追って辿り着いたのは、先程の洞窟よりも幾分広い洞窟だった。ファイヤーは洞窟の最奥でそっと腰を下ろす。はどうするか悩んだが、洞窟の入口のすぐ傍に腰を下ろすと、ファイヤーを見つめた。
「あの……」
が口を開くと、ファイヤーは小さく欠伸をしたようだった。薄く開かれた嘴の隙間から、ちろちろと火の粉が舞う。それを見たは、釣られて欠伸を漏らすといつの間にか眠りに就いてしまった。
が目を覚ますとファイヤーは既に眼を覚ましており、洞窟の外に立っていた。ファイヤーの背後に広がる空は真っ青に晴れている。
ファイヤーはが目を覚ましたのを確認すると、昨夜のようについて来い、とでも言うかのように一声だけ静かに鳴いた。は体をぐっと伸ばすと、リュックを手に慌ててその後を追う。
ファイヤーは時々後ろを振り返り、がついて来ているかを確認しているようだった。はで明るいとは言えどファイヤーを見失わないように、道標のようなファイヤーの燃える尾羽を必死に追う。
そうして長いこと歩き続けると、漸くの見知った道まで辿り着いた。
「あっ、ここからなら帰り道が分かるかも……」
が嬉しそうにファイヤーに目を向けると、ファイヤーはこくりと頷いてから翼を広げた。
「本当に、ありがとう……!」
が言うや否やファイヤーは舞い上がり、はらはらと美しい火の粉が散った。そうして今にも去ろうとするファイヤーを、は必死に呼び止める。ファイヤーは一体どうしたのかとを見下ろした。
は少し迷った後、意を決したように口を開いた。
「その、春になったらまた来てもいいかな?私、あなたのことをもっと知りたいの……!」
今度はちゃんと迷わないように気を付ける、そう付け足すと、ファイヤーは微かに笑ったようだった。そして力強く翼を羽ばたかせると、今度こそ山の上へと向かって飛び立つ。その際に上げた美しい鳴き声は、の耳に長い間余韻を残していた。
ファイヤーがを助けたのは、が密猟者などの山に害を及ぼす者ではないと分かったからだった。
とファイヤーが視線を交わらせたあの時。ファイヤーは眼の前に姿を見せた者が密猟者だったら、容赦なく消してしまおうと考えていた。
しかし眼の前に現れた人間は泥だらけでひどく泣きそうな顔をしており、とても密猟者には見えない。何より敵意は微塵も感じられず、それどころかすがるような目をしていた。
どうやら密猟者では無さそうだ。そう判断したファイヤーは、のことを助けたのだ。
そうしてファイヤーに助けられたはあの別れの時の言葉通り、春になると再びあの山を訪れた。今度は道に迷うことなくあのファイヤーと出逢った場所まで辿り着くことが出来たは、そこでファイヤーの名を呼ぶ。
すると暫くして力強い羽ばたきが聞こえ、あの日と変わらない姿のファイヤーがの前に舞い降りた。
自分を呼ぶのは誰かと思い姿を現したファイヤーだったが、の姿を眼にすると驚いたように眼を見開いた。まさか本当に来るとは思っていなかったのだ。
「こんにちは、ファイヤー」
が笑うと、釣られたようにファイヤーも思わず笑ってしまった。
そうしてこの日から、は前にも増してこの山を訪れるようになったのだ。ファイヤーも最初は何度もこの場所を訪れるに呆れた様子を見せていたが、次第に心を開くとがやって来るのをどことなく心待ちにするようになった。そして今では山の上から山へ入るの姿を眼にすると、途中まで迎えに来るようにまでなっている。
ファイヤーに顔を覗き込まれていることに気が付くと、ははっとした様子を見せた。二人が初めて出逢った場所に向かう途中、ファイヤーと出逢った時のことを思い出していたからか、ぼうっとしてしまっていたようだ。
「ちょっと、ファイヤーと出逢った時のことを思い出していたの」
二人が初めて出逢った場所まで辿り着き、がそう言うとファイヤーは首を傾げた。それから大きく翼を広げると、へと眼を向ける。は大きく深呼吸をすると、頷いた。
はこの山の豊かな自然も、そこに棲むポケモン達の生き生きとした姿も大好きだったが、中でも一等好きなのは、冬の終わりのファイヤーの羽ばたきによってもたらされる春が始まりを告げる光景だった。
その美しい光景を初めて見た時は、知らずの内に思わず涙を流した程だ。
ファイヤーはが頷いたのを確認すると、力強く舞い上がる。橙色の翼が美しく燃え上がった。そしてその翼が羽ばたく度に生み出す、夜空さえも赤く染めるような熱が雪を溶かしていく。ある地方ではファイヤーが姿を現すと春が訪れるという伝承があるが、伝承そのままの光景に、は息を呑まずにはいられなかった。
雪が溶けて生まれた雪解け水は山肌を伝って流れてゆき、長い冬の寒さで凍えていた大地がファイヤーの羽ばたきによって温もりを取り戻していく。
白い雪に埋もれて姿を隠していた地面が顔を見せると、野生のポケモン達がそこかしこから姿を現した。潤った土の香りに眼を閉じるゴマゾウや、すっかり春の花の色に毛色を変えたシキジカの群れが地面から芽吹いた新芽を口にして感嘆の声を上げている。
「……この光景を見るのは初めてじゃないけれど、やっぱり感動しちゃうね」
暫くして、山が春を迎える準備を始めたことを確認したファイヤーがの隣に降り立つと、瞳を輝かせたがそう呟いた。ファイヤーがその言葉に同意するように頷くと、はファイヤーへとその輝く瞳を向ける。
「ファイヤー、こんなに素敵な景色を見せてくれてありがとう」
地面は新芽の緑によってそこら中が彩られている。あと数週間もすれば花が咲き、緑だけじゃない鮮やかな色彩でこの山も賑わうだろう。
毎年見ているその光景を思い出しながら、自分の隣で一足先に咲いた花のような笑顔を浮かべるに、ファイヤーも釣られて笑った。
企画:二人の足跡へ提出