Hanada
 私の部屋には一冊のお気に入りの絵本がある。
 星が降る夜に、空から落ちてきたひとつのお星さまを女の子が拾うお話だ。けれど本当はお星さまはジラーチというポケモンで、女の子とジラーチ、とっても仲良くなった二人は夢のような時間を過ごすのだ。
 最後のページ一面に描かれた眩しい星空と、その下で向かい合って笑う女の子とジラーチの幸せそうな顔。それが初めて読んだ時からずっと大好きで、私は今でもその絵本を大切にしている。


 ベッドに寝そべって表紙が色褪せてしまったお気に入りの絵本を読んでいると、部屋の入り口の方から「ぎゃう」と声がした。相棒のリザードの声だ。

「おいで」

 振り返り、リザードへ手招きをする。のしのしと力強い足取りでやって来たリザードは、私の手元の絵本に気が付くともう一度鳴いた。先ほどよりもほんの少しだけ呆れたような声色だ。
 リザードの言いたいことはきっと「またそれか」だろう。何せまだ私が絵本の中の女の子くらいの年齢で、リザードがヒトカゲだった頃から何度も飽きることなく読んでいるのだから。

『ねえ、ヒトカゲ。見て! おほしさまがいっぱいですてきだと思わない?』
『いいなあ、わたしもおほしさまにさわってみたいなあ』

 おほしさまが欲しいだとかそんなことを言いながら、当時の私はこの絵本をヒトカゲに読み聞かせていたっけ。
 そんな懐かしい気持ちに浸っていると、ベッドによじ登ったリザードがざらついた鼻先を私の腕に押し付けた。どうしたのかと問いかけると、リザードは不満そうな表情で壁に掛けられた時計を指差した。見ると、午後をとうに過ぎている。

「……あれ、もうそんな時間かあ。よしよし、出掛けよう」

 ベッドから飛び降りたリザードの尻尾が、満足そうにゆらりと大きく揺れた。



 週に二回ほど、午後にはワイルドエリアに出掛けると決めている。
 いつからか随分と好戦的になったこの子が、時間さえあれば戦いを求めるからだ。そのためここ、エンジンシティからすぐに行ける距離で尚且つバトルをするのに丁度いいワイルドエリアの存在には助けられている。
 家を出ると街のそこかしこから立ち昇る蒸気の向こうに抜けるような青空が見えた。リザードのやる気に満ちた目が日差しを受けて輝いている。

 エンジンシティを南に、年代物が並ぶレコードショップ、バトル好きなマスターが経営するカフェの前を通り、門をくぐる。そうすれば、ワイルドエリアのキバ湖・東に到着だ。広大な自然を吹き抜ける風が頬を撫でていく。
 本日の天候は晴れ。しかしワイルドエリアの天気は変わりやすい。念のためスマホロトムにマップを起動してもらい、現在時刻のエリアごとの天気を確認する。

「……わっ、うららか草原は雪が降ってるって。あんまり近付かないようにしよう。キバ湖の西、瞳は今日一日快晴みたい」

 私の言葉に頷いたリザードは西に向かってゆっくりと歩きだした。その後を私も追いかける。



 人懐っこくこちらへ近寄ってくるアマカジには目もくれず、リザードは湖のほとりを進んでいく。草むらから顔を出したオタマロたちが、慌てた様子で次々と姿を消していった。

 戦い相手を求めるリザードが足を止めたのは、キバ湖の西側にある桟橋を渡ったところだった。
 私の数歩先で揺れていた尻尾の炎が、不意に激しい音を立てて青白く燃え盛る。前を見据えて唸り声を上げたリザードの眼光は鋭い。その視線の先にいたのは、一匹のキングラーだった。

「相手は水タイプだけど……それでも、やる?」

 隣に並んで問いかけると、無論だと言うようにリザードが吠えた。気合いは十分だ。

 「分かった。……行くよ!」

 こちらに気が付いたキングラーが、大きなハサミを振り上げる。リザードは私の指示と共に、駆け出した。


***


 タイプの相性に苦戦しながらも、リザードは確実にキングラーを追い詰めていた。
 かえんほうしゃによって「やけど」を負ったキングラーの攻撃力が目に見えて下がっているのが大きいだろう。おまけに「えんまく」による黒い煙の包囲網で、元からその重さのせいで狙いをつけるのが苦手だというキングラーのハサミは先程からリザードに全く触れられずにいる。

 えんまくを払うべく、黒い煙の中心地からキングラーが大量の泡を吐き出した。バブルこうせんの凄まじい勢いに押し流されたえんまくの切れ間からリザードが飛びかかる。
 ようやくその目に赤色の姿を捉えたキングラーが、大きなハサミを振り上げた。ドン、という大きな音に続いて地面が揺れ、砂埃が舞い上がる。

 砂煙の向こうで「クラブハンマー」をかわしたリザードが、地面を砕いたハサミとその体を両手でしっかりと掴んだのが見えた。
 そして。砕けた地面を後ろ足でしっかりと踏み締めて自分の数倍も重い体を持ち上げたリザードは、そのままキングラーを地面に叩きつけたのだった。


 リザードの「カウンター」が決まって目を回していたキングラーは、ややあって意識を取り戻した後、キバ湖に潜っていった。それを見届けた私は胸を撫で下ろす。
 数えきれない程のバトルを繰り返してきた相棒の実力を信じていなかった訳ではないけれど、それでも、タイプ相性が不利な相手でいつものバトルの数倍は緊張したのだ。

「リザード」

 お疲れ様、と言おうとして、傍らに立つリザードに目を向けた私は言葉を失った。

 何故なら、リザードの全身が淡い光の粒子に包まれて輝いていたからだ。立ち尽くす私を他所に淡い光は少しずつ寄り集まって、だんだんとその輝きを増していく。
 この光は、現象は、見たことがある。そう、ヒトカゲがリザードに進化した時と同じもの。今何が起こっているのか、起こるのか。理解すると同時に、私は思わず相棒の名前を呼んだ。

 リザードの全身を包んだ光は一回り大きな輪郭を描き、最後にその背中に大きな一対の翼を形作った。眩しさに堪えきれず閉じた瞼の向こうで、徐々に光が収まっていく。
 何となく目を開くタイミングを掴みかねていた私は、静かに響く相棒の呼び声に導かれて目を開いた。

 そこにあったのは、翼を得たことで空をも飛べるようになった相棒の姿だった。

「……リザードン!」

 たまらず私は飛び付いて、一回り大きくなった体を抱き締めた。嬉しそうに目を細めたリザードンが私のことを力強くしっかりと抱き締め返す。逞しい背中に精一杯手を回して、今まではなかった翼の付け根に触れてみる。するとリザードンはくすぐったそうに身を捩った後、得意気な顔でこちらを見た。
 その表情に私が首を傾げると、リザードンがほら、どうだ、とこれ見よがしに翼を大きく広げて見せつけてくる。何となくリザードンの言いたいことが理解できた私は、「えっ」と声を上げてしまった。

「……いきなり背中に乗せてくれるの?」

 確かにこの翼を見て、ちょっと空を飛んでみたいな、だなんて思ってはいた。けれど、まさかバトルが終わったばかりの体で乗せてくれるとは。
 驚いた私の顔を見たリザードンは呆れたように鼻で笑った後、乗りやすいよう翼を伏せた上に体を低く傾けてくれた。お陰で私は初めてにも関わらず、すんなりとその大きくがっしりとした背中に乗ることができたのだった。

 私がちゃんと乗ったことを確認したリザードンが、数歩駆けた後に力強く地を蹴った。翼が風を捉え、大きな体が信じられないほど軽やかに浮かび上がったかと思えば、あっという間に地上が離れていく。

「わっ!」

 オレンジ色の太い首に慌ててしがみつくと、ちらりと振り返ったリザードンが笑った。大丈夫かと問いかけるような瞳に、笑顔で頷いて見せる。リザードンは再び前を向くと、翼を大きく羽ばたかせて高度を上げた。



 悪天候のエリアをなるべく避けて、ワイルドエリアの端から端まで飛行を楽しんだあと。私たちは遥か彼方の地平線に太陽が沈んでいくのをキバ湖の上空から眺めていた。
 夕陽が沈んでいく様子なんて毎日眺めているはずなのに、視点が違うだけでいつもとはまた違ったものに見えるから不思議だ。広大な自然が、オレンジ一色に染まっていく。夕陽を照り返すキバ湖の水面がキラキラと輝いて眩しい。

 太陽が沈むのはあっという間で、オレンジ一色だった世界はまた、端から色を変えていく。オレンジ色から紺色へ。そうして夜のとばりが下りると、いつの間にか空には星が輝き始めていた。

「わあ。星がいっぱい……」

 今までで一番近いところで星空を見た私は思わずそう口にした。続けて、幼い頃の自分を思い出す。

『ねえ、ヒトカゲ。見て! おほしさまがいっぱいで、すてきだと思わない?』
『いいなあ、私もおほしさまにさわってみたいなあ』

 幼い頃、絵本を広げた自分が繰り返し口にしていた言葉。そして、それを聞いて絵本をじっと見つめていたヒトカゲの顔。
 そこまで思い出した私は、不意に頭の中でパチパチとパズルのピースがはまっていくような、そんな錯覚を覚えた。ハッと息を飲んで、リザードンの顔を見つめる。まさか。

「……ねえ。私ね、リザードンがやたらとバトルをしたがるようになったのって、てっきりバトルが好きになったからだと思ってたんだけど……もしかして……」

 早く進化して、私に星空を見せたかったとか?
 その言葉はかたちにならなかった。する必要が、なかった。──振り返ったリザードンが私に向ける満ち足りた表情が、やさしい眼差しが、すべての答えだった。

「……そっか。……そう、だったの」

 ヒトカゲの時とも、リザードとも少し違う手触りの、オレンジ色の背に額を押し当てる。目を閉じると、堪えきれなかった涙が落ちた。
 ありがとう。本当は大きな声で叫びたかったのに、口から出たのはとても小さくて情けない声だった。それでもリザードンにはしっかりと届いたようだった。リザードンの嬉しそうな声が耳に届いて、心に火がともる。

 ああ。この子は幼い私が繰り返し口にしていた言葉を、ずっとずっと胸に刻んでいてくれたのだ。

 私はあまりバトルが得意ではないから、ヒトカゲからリザードへ進化を遂げるのにも時間が掛かった。
 それからだって、定期的にワイルドエリアにへ出掛けるようになったと言っても、一日中バトルができた訳じゃない。なかなか思うように経験を積むことができず、やきもきすることもあっただろう。
 それなのに、より近いところで、あの絵本のような「お星さまがいっぱいで素敵な星空」を私へ見せるために、ずっと。


 長い時間のあと手の甲で涙を拭って顔を上げると、リザードンがまた少し高度を上げた。リザードンの体温と、長い尻尾の先で燃え盛る炎のお陰か寒さは感じない。あの絵本の最後のページに描かれたように眩しい星空はもう、手を伸ばせば届きそうなところにある。

 片手をそっとリザードンの背から離して、空に伸ばす。指の隙間から、輝く星の光が溢れた。

「ねえ、リザードン、見て。もう少しで星に触れそう」

 散らばる星のひとつを掴むよう、ぐっと手を握り締めた私の言葉にリザードンが小さく火の粉を吐いて笑った。
 リザードンの夕陽のようなオレンジ色のうろこが、弾ける火の粉のきらめきに照らされる。やわらかな光を纏って滑るように空を泳ぐリザードンは、まるでひとつの流れる星のようだった。

 幼い頃に羨んだ星いっぱいの空の下で、今、私は確かに星に触れていた。



(20200929 星の輪郭)
お題箱の、「機会がありましたらリザードンのお話を読んでみたいです」より