Hanada
 夕方の、買い物をした帰り道のこと。はやけに上機嫌だった。今日立ち寄ったのは、いつものスーパーとのお気に入りの紅茶の専門店。別段変わったことはない。だというのに、はにこにこしながら鼻歌を歌っている。
 一体何があったのか、おれが視線を投げ掛けても、は「ひみつ!」と教えてくれない。
 彼女の手から提げられた買い物袋。そこをこっそり透視しても、今日の晩ごはんの食材と、ポケマメの袋、あとはミツハニー堂のあまいミツ、モーモーミルクが二瓶、それから紅茶の店の紙袋が入っているだけだ。

 が買ったものをもう一度観察し、それからあれこれと考える。
 ──ははあ。さては、家にあったしあわせたまごとミルタンク印のバター、今日買ったこのモーモーミルクなんかでケーキでも焼くんだな。それで、そこにたっぷりとあまいミツをかけるのだ。
 が時々焼いてくれる、メリープの綿毛みたいにふかふかのケーキは、おれの大好物だ。明日のおやつはきっとこれだろう。はおれを驚かそうと考えているに違いない。ひみつにしたかったには悪いが、おれには全ておみとおしだ。

 あまいミツがたっぷりかかったふかふかのケーキを想像しただけで、ぐうぐうと腹が鳴った。ごくりと喉を鳴らしたおれは、上機嫌なの隣を上機嫌で歩く。心地よい電気が駆け巡る、エレキフィールドの上でスキップでもしている気分だ。今のおれの足取りは、そよ風に浮かぶフラベベの如く軽い。


 帰宅をして、晩ごはんの支度をする間も、晩ごはんを食べ始めても、食べ終えてもおれがずっと上機嫌だったからか、は不思議そうにしていた。

「レントラー、ごきげんだね。そんなにご飯が美味しかったの?」

 いつもと変わらないポケモンフーズときのみなんだけどなあ。そんなことを言って首を傾げるの横で、おれは、さも明日のおやつがパンケーキだなんてことは知らないよ、なんて顔をしてニヤリと笑う。は空っぽになった皿を片付けながら、不思議そうな顔をするばかりだ。キッチンで皿を洗い始めたの頭の上には、いくつものハテナマークが浮かんでいた。


 就寝時間の少し前になって、がキッチンで紅茶を淹れ始めた。は就寝前に温かい紅茶を飲むのが日課なのだ。何でも、からだが温まって眠りやすくなるらしい。
 リビングに敷かれた柔らかいラグの上で丸くなっていたおれは、起き上がると伸びをした。トポトポという、ティーカップに紅茶が注がれる音を拾った耳が自然にひくりと動く。
 今日買った紅茶を淹れたのか、しばらくして漂ってきたのは嗅ぎ慣れない匂いだった。キャンプをした時にが作ってくれたカレーのような香ばしい匂いがほんの少しと、それから甘い匂い。嗅ぎ慣れたものとは全く違うが、いい匂いだ。
 
 匂いに導かれるようにキッチンに向かうと、どうやらカウンターの上のティーカップを見つめているらしいが目に入った。足にすり寄ると、くすぐったい、という声が、おれの自慢のたてがみのてっぺんに降ってくる。

「いい匂いでしょ。今日買った紅茶なんだ」

 少し屈んで、おれのたてがみをわしわしと撫でたが言う。そうだと思ったよ。おれが頷くと、は口元にゆるりと弧を描く。「いい紅茶を見つけたんだ」その表情は、とても幸せそうなものだ。

 はゆっくりと時間をかけて、熱い紅茶をからだの隅々まで行き渡らせるように飲み干した。そうして後片付けをして、歯を磨いて、寝る支度を終えたは自室に向かう。その後をおれも追った。


 夜、眠る時。はベッドで眠る。おれはベッドの隣の、床に敷かれた毛布の上だ。水色の地に黄色のイナズマ模様が走る毛布は、おれがコリンクの頃から使っているからか、端の方が随分とほつれてしまっている。には何度か買い替えようかと言われたが、この毛布がお気に入りのおれは、いつも首を横に振るのだ。
 毛布の上で足踏みをして寝床を整えていると、ベッドに寝転がったに呼ばれた。足踏みを止めて顔を上げると、がもう一度おれを呼んだ。

「レントラー」

 ベッドの縁に前足をかけて、の顔を見つめる。はいはい、聞いてるよ。それで、どうしたんだ。ぐるぐると喉を鳴らして返事をすると、は自身の隣のぽっかりと空いたスペースを、ぽんと叩いた。

「ねえ、レントラー。今日は一緒に寝ようよ」

 が眉を下げて言ったことばにおれは心底びっくりして、思わず眉間にしわを寄せた。それからすぐに嫌だと首を振る。一緒に寝たくないのを、は知ってるだろ。おれの言いたいことが分かっているのか、は困ったような表情を浮かべる。けれどすぐに柔らかい笑みを浮かべると、「大丈夫だよ」と口にした。

 大丈夫だよって、何が? 首を傾げると、がもぞもぞと起き上がり、ベッドの縁にかけたままのおれの前足にそっと触れた。そのまま前足をきゅっ、と握られる。温かい紅茶に満たされたからか、の指先はほんのりと温かい。

「……レントラー、まだ昔のことを気にしてるんでしょ」

 に問われ、おれは奥の歯を噛み締める。が口にした、昔のこと。そう、おれが小さなコリンクで、まだとおれが一緒のベッドで眠っていた頃の、忘れもしない記憶。──寝惚けたおれが、にでんじはを放ってしまった日のことだ。


 あの時のの悲鳴と、部屋に駆け込んできたの母の驚いた顔をよく覚えている。

「でんきタイプの子と暮らしていると、よくあることなの」

 何が起きたのかをすぐに理解して、にまひ治しの薬を飲ませたの母は、「私も昔、エレキッドと寝ていたらでんじはを浴びせられたのよ」と笑った。騒ぎを聞き付けて部屋の入り口に立っていたエレキブルが、目を逸らして鼻の頭を掻く。

「この子ったら、本当に寝相が悪かったんだから! 私、寝惚けたエレキッドにけたぐりをされて、ベッドから転げ落ちたこともあるのよ」

 母親の追撃に、いつもは堂々としているエレキブルが小さく悲鳴を上げた。その話は勘弁してくれと唸り、大きなからだを縮こまらせて、顔を手で覆っている。
 まひ治しの薬はすぐに効き目が現れたようで、の母の話とエレキブルの様子に、は元気に笑い声を上げた。おれはそうっと安堵の息を吐く。

 のからだの痺れが治まったのを確認して、母親とエレキブルが部屋から出ていくと、部屋はしんとした静けさを取り戻す。
 閉じられた部屋の扉を何とも言えない気持ちで見つめていると、に抱き上げられた。

「コリンクは大丈夫? 何か怖い夢でも見たの?」

 ひどい目に合ったのは自分だというのに、おれの心配をするに顔を覗き込まれ、咄嗟に目を逸らした。そんなおれの様子に、は「気にしなくていいのに。すぐ治ったんだし」と笑う。けれどおれは、大好きなに怪我をさせてしまったおれ自身のことが、どうにも許せなかった。

 それからだ。おれがと一緒に、眠ることができなくなったのは。

 旅に出てからも、ルクシオに進化を遂げても、更にレントラーへとすがたを変えても、やっぱりおれはと眠ることができなかった。
 最初の内はおれに大丈夫だからと言っていたも、「無理強いは良くないよね」「レントラーが大丈夫だなって思ったら、また一緒に寝よう」と言って、ベッドで一人眠るようになった。
 本当のところ、おれはと一緒に眠りたかったが、「もしも」のことを考えるととても恐ろしく、それはできそうになかった。


 だから、いくらに「大丈夫だよ」と言われても、おれは素直に頷くことが出来ない。
 おれが顔をしかめていると、前足から手を離したに顎を撫でられた。

「レントラー、あのね。今日買った紅茶、あれはクラボのみとラムのみから作られた紅茶なの」

 眉間にしわを寄せたまま、おれは首を傾げる。の指先が、何度も顎を往復してくすぐったい。

「でんきタイプの子と暮らす人にオススメの新商品で、まひ状態の防止の効果があるんだって!」

 の目が、海面に揺らぐランターンの光のようにきらきらと輝く。のことばを何度も頭の中で繰り返して、そうか、と合点がいった。今日の買い物帰り、が上機嫌だったのはこれが理由だったのだ。
 ぽかんと口を開けているおれの前足を、は軽く引く。おれはそのまま前足に力を込めると、後ろ足で床を蹴ってベッドに飛び乗った。ベッドが少しだけ苦しそうな音を立てる。
 横になったの隣に、恐る恐る同じように横たわった。上からそうっと、柔らかな毛布が掛けられる。至近距離で見つめ合うと、がふふふ、と小さく笑った。

「レントラー」

 名前を呼んで、がおれの前足の間にからだを滑り込ませる。布団の中でと寄り添い合うのは、随分と久しぶりのことだった。

「ひゃー、温かいねえ」

 おれのからだに手を回し、胸元に顔を埋めたの、嬉しそうな声が耳に届く。
 本当に、本当に大丈夫だろうか。コリンクの頃よりもからだに流れるエネルギーの扱いは長けているはずだが、それでも万が一、またを痺れさせてしまったら。ここまで来てもそんなことを考えて、前足の行き場を失い、うう、と唸っているおれの頭の後ろを、が抱き寄せる。

「大丈夫」

 前足を、そろりとのからだに回す。懐かしい、と思った。コリンクの時は、こうして眠っていたのだ。お互いのからだに手を回して、二人の心臓の音が聞こえるくらいにぴったりとくっついて、頬を寄せて眠っていた。
 たまらずおれは、のからだをぎゅうぎゅうと抱き締める。

「わっ、レントラー!」

 おれの耳を打つ「くるしい」という声は笑っていて、お返しだと言わんばかりにきつく抱き締められた。温かい。単純にとくっついているからというのもあるが、それだけじゃない。
 おれの胸のずっと奥の深いところで燻っていた、あの日からずっと抱えていた何かが、ゆっくりと解けていく。それがじんわりとからだ中に広がって、心もからだもぽかぽかと熱を持っているようだ。

「……そうだ! 明日はおやつにパンケーキを焼こう。ふかふかで、あまいミツたっぷりのやつ」

 不意にが口にしたことばに、今度はおれが笑った。が上機嫌だった理由は見事ハズレたが、明日のおやつについては当たりだったな、と。更に続けてが言う。「そういえばヒウンアイスが残ってたね。それも乗せちゃおう」

 それはいい、賛成だ。おれがの鼻の頭をべろりと舐めると、が楽しそうな声を上げた。

「よし、決まり! それじゃあ今日はもう寝ないとね。……おやすみ、レントラー」

 また昔のように、間近での「おやすみ」を聞くことのできる幸せを噛み締めながら、おれは喉を鳴らした。おやすみ、




(あまいミツたっぷりのパンケーキと、おやすみ/
20210105)