「こんなはずじゃなかったんだけどなあ」

 そんな言葉が聞こえたと思ったら、続けて呻き声が耳に届いたので、ベッドに腰掛けていたデオキシスは振り返った。
 ベッドでは横になったが毛布にくるまっている。その顔はマトマのみのよう――はさすがに言い過ぎだが、それでもいつもよりも少し、いや大分赤らんでいた。
 何度か瞬きをしたデオキシスは、サイドテーブルに置かれたおいしい水の入ったペットボトルをサイコキネシスで引き寄せて、それを差し出してやった。

「お手数おかけします……」

 ナマケロの如く緩慢な動作で起き上がったは、ぐずぐずと鼻を鳴らしてペットボトルを受け取った。ゆっくり中身を口にして、固くキャップを閉める。彼女が指先に力を込めると透明なボトルが僅かに歪み、ペキッと音を立てた。
 眉をハの字にしたから、少しだけ歪な形になったペットボトルを取り上げたデオキシスは、それをぽいっと適当に放り投げる。見えない力によって床に落ちることなく宙へ浮かんだペットボトルの中で、おいしい水がゆらゆらと波打った。
 こら、投げない! なんてごもっともな指摘がすかさず飛んできたものだから、デオキシスはわざとらしく肩を竦めて見せたあと、の頭をぽんぽんと撫でて、肩をやさしく押した。
 何の抵抗もなく仰向けになった彼女の体へ元のように毛布をかけてやれば、少しかさついているように見える唇から「ありがとう」という言葉が紡がれた。その声はやっぱりいつもと比べて弱々しい。

「……流れ星、デオキシスと見たかったなあ」

 口を尖らせたの目には、涙の膜が張っている。
 そう、今日はふたりで星を見る約束をしていたのだ。ふたりだけが知る、ふたりだけのあの場所で。



『ねえ。良かったら、今度一緒に星を見ない?』

 がそう言ったのは、一週間程前のことだ。
 彼女の大切なコレクションのひとつであるほしのかけら。それを手のひらで転がして遊んでいたデオキシスは、を見遣ると目を瞬かせた。
 ふたりで宇宙のかたちについて話したあの日以降も、何度もあの場所へ星を眺めに行っている。だというのに、どうして改まって言うのだろうか。そう思ったのだ。

 デオキシスが首を傾げると、は「見て、これ」と言いながらスマホを差し出した。
 その言葉に従って、デオキシスは静かに視線を落とす。そこにはネットニュースの見出しが表示されていて、「月明かりもなく絶好の条件! ニダンギル座流星群、見頃」と書かれていた。太字で強調されたその文字の並びを目でなぞったデオキシスは、今度は反対側へ首を傾げる。
 たったそれだけの仕草だが、ニダンギル座流星群、見頃。とは? そう言いたいのが伝わったようで、はやわらかく微笑んだ。

「ニダンギル座は星座の名前で、流星群は……まあ、簡単に言うと流れ星がたくさん見られるってことね」

 の説明を聞いたデオキシスは、この部屋にある「宇宙図鑑」で流星群という文字を見たことがあるのを思い出したあと、むむ、と眉間に皺を寄せた。
 流れ星がたくさん見られること。それはデオキシスからしてみれば、さして珍しいことではなかった。夜空を自由気ままに漂っていれば、流れる星なんてしょっちゅう見ることができたからだ。
 しかし――デオキシスは自身へ向けられた、期待に満ちた眼差しを見つめ返す。
 を見るに、どうやら人間にとってはそうではないらしいのだ。デオキシスはまたひとつ人間について詳しくなったぞ。なんて思いながら首を縦に振った。
 
 そうしてはもちろんのこと、デオキシスもニダンギル座流星群の見頃である今日という日を心待ちにしていたのだが。

 今日はいよいよ約束の日だというのに、いつものように部屋を訪れたらベッドでが毛布にくるまっていたものだから、デオキシスは面食らってしまった。
 毛布から覗く彼女の顔はいつもより随分と赤みを帯びていて、その上ぜえぜえと苦しそうに呼吸をしている。ふたりで同じ時間を過ごすようになって随分と経つが、こんな風に元気のない姿を見るのは初めてのことだった。
 ちなみに、あの孤島へ初めて連れて行った時の、スピード調整を誤って「ひんし状態」にさせたのはデオキシスの中でノーカウントだ。

「あ……。で、デオキシス……。いらっしゃい」

 物音が耳に届いたのか、もぞもぞと動いて上体を起こしたが今にも消えそうな声で言った。

「自分でも信じられないんだけど、風邪を引いたみたい……」



 そして現在、という訳である。
 体調を崩すという経験を一切したことがないデオキシスは、人間はやっぱり脆い生き物だと思いながらの額に手のひらを乗せた。

「あー……。ひんやりして気持ちいいや」

 手のひらから伝わる、いつもよりも高い体温。流れ星を見たかったと言ったは諦めがつかない顔をしていたが、こんな状態の彼女を連れ出したらどうなるか。人間と自身の違いに疎いデオキシスでも、さすがに分かる。再びひんし状態になること間違いなしだ。
 紺色のカーテンの隙間から覗く窓の向こうにはたくさんの星が散らばっていて、夜空へ誘うように眩く輝いている。
 できればの望みを叶えてやりたかったが、こればかりはできそうにないなとデオキシスは小さく首を振った。

 の額に手のひらを置いて暫くしたあと、その態勢のまま部屋の中を見回したデオキシスは、机の上へ置かれた透明な瓶に目を留めた。
 中には白くてまるい粒状のラムネと、薄い黄色に水色、桃色の小さな星の形のラムネがたくさん入っている。いつだったか、可愛いから買ったのだとが見せてくれたものだ。
 デオキシスが片手でラムネの瓶を引き寄せると、瞼を持ち上げたが「食べたかったら食べていいよ」と言った。
 熱い額から手を離したデオキシスは首を振る。食べないと意思表示をしたにも関わらず瓶の蓋を開けると、は不思議そうな表情を浮かべた。
 まあ、見てなって。デオキシスは瓶をそっと傾けて、水色の手のひらの上に小さな星の粒をいくつか転がした。カラコロと音を立てて散らばった小さな星の粒を指先で摘まみ上げて、それらをひとつずつ順番に宙へ浮かべていく。は涙できらめく目をまるくして、デオキシスの様子を黙って眺めていた。

 瓶の中に閉じ込められていた星の数は百にも満たず、全てを浮かべても部屋の宙はいっぱいにならない。精々、ベッドに寝転がるの上の空間が少しにぎやかになったくらいだ。
 ――それでも。それは、「なあに、それ」なんて言葉と共にの笑顔を引き出すには十分な量だった。

「ベッドに寝転がったまま星空が見られるとは思わなかったなあ」

 毛布を口元まで引き上げたが感心した様子で言うので、デオキシスは胸を張って頷いた。
 堪えきれなかったの小さな笑い声が、ラムネで作られた星空に静かに響く。

 知らない星座がたくさんある、と、適当に浮かべた星の並びをが指先でなぞるのを眺めながら、デオキシスは桃色の星をひとつ動かした。
 途端にが「おっ、流れ星」と掠れた――けれど先ほどよりも随分と明るい声で言う。

「……前に話したっけ。流れ星が消える前に三回願い事を唱えられたら、その願いは叶うってやつ」

 デオキシスは頷いた。数か月前にシシコ座流星群だったかを見に行った際、が話してくれたのだ。
 もうひとつ、今度は黄色の星を動かせば「願い事、ちゃんと三回唱えたいからもうちょっとゆっくり」なんて随分と都合のいいリクエストが飛んできたものだから、デオキシスは笑ってしまった。
 毛布から両手を出して、胸の上で指を組んだが目を閉じる。デオキシスはの様子を窺いながら、彼女の望み通りにゆっくりと黄色の星を流してやった。

 暫くするとはそっと目を開けて、デオキシスへと微笑んだ。

「……ちゃんと三回唱えたから、大丈夫。ありがとう」

 のろのろと流れて役目を終えた星を、少しかさついているように見える唇の上に着陸させる。目を瞬かせたは、自分の元へ辿り着いた流れ星を口に含んだ。
 その様子をデオキシスがじっと眺めていると、は何かを勘違いしたようだった。

「願い事が何か気になるの?」

 そういうつもりではなく、何の気なしに眺めていただけだ。でも、確かに気になるかもしれないとデオキシスは頷く。
 はむぐむぐと口を動かして流れ星を飲み込むと、やわらかな笑顔を浮かべた。

「来年こそは、デオキシスと一緒にニダンギル座流星群が見られますようにって」

 来年のこの時期も、ふたりが一緒にいること。それをが当たり前だと思っていることを知ったデオキシスは目をまるくする。それから、きっと来年どころかその先もふたりが一緒にいるのが当然だと思っているのだろうなと思った。
 に気がつかれないように、デオキシスはこっそりと目を細めて笑う。
 何故なら自分もまた、いつの間にかそれが当然のことで、疑いようのない未来だと思っていることに気がついたからだ。
 ちゃんと叶うといいなあ。そう言ったの、いつもより熱を持った手をデオキシスはやわく握る。

 カラフルなラムネの星々の向こう、窓の外を見遣る。タイミングよく、ひとつの星が白い尾を引いて流れていくのが見えた。
 来年こそはふたり一緒にニダンギル座流星群を見ること。これから先もふたりが一緒にいること。それは星に願うまでもなく叶うだろう。
 だから、早くの風邪がよくなりますように、なんてささやかな願いをデオキシスは祈ったのだった。



(流れ星はラムネの味がするらしい/20240522)