さんざめく星の群れを背に、デオキシスは一軒の家の屋根に降り立った。機動力に特化した姿のまま、からだの縁をなぞる夜風に目を細める。
ややあって数回瞬きをした彼は、二本の触手状の腕をしならせて辺りを見回した。
隣家とは間隔が空いているし、何よりこの時間だ。誰にも気づかれてはいないだろう。そうは思いつつもデオキシスは慎重に辺りの様子を探って、人ひとり、ポケモン一匹の影すらも見えないことを確認する。
少しの間を置いて、どうやら大丈夫そうだと判断したデオキシスはもう一度その場に浮かび上がった。
すい、と宙を滑るように移動した先は、藍色のカーテンの隙間から明かりが漏れる窓の前だ。こうしてカーテンは閉められているというのに、両開きの窓は今日も不用心に少しだけ開けられている。
最初は本当に偶然であったものの、今ではそれが自分のためであるとデオキシスは知っていた。なのでためらうことなく扉の隙間にするりと片手を滑り込ませ、窓を開いて侵入する。その際、わざと小さな物音を立てることも忘れない。
やわらかな明かりが灯る室内に侵入すると、物音が耳に届いていたのであろう人間と目が合った。
「いらっしゃい。そろそろ来る時間かなあって思ってた」
デオキシスとが出逢ったのは、今より季節が三つほど前のことだ。
その日、デオキシスはぽつぽつと疎らに散らばる家の明かりを見下ろしながら、気まぐれに夜の空を飛んでいた。
空気は暖かく、しかし時折海の向こうからやって来る夜風はひんやりとしていて、とても気持ちのいい夜だった。
けれども、夜の散歩はここまでにして。誰かに見つかる前に、ねぐらにしている小さな島に帰ろう。そう考えて、僅かにスピードを落とした時だった。視界の端で何かがはためくのが見えたのだ。
一体なんだろう? 高度を少しだけ下げて「何か」が見えた方へ目を向けたデオキシスは、おや、と首を傾げた。
はためいたものの正体──藍色のカーテンと、不用心にも開け放たれた両開きの窓。その奥に一瞬きらめく何かを捉えたからだ。
窓の目の前まで移動したデオキシスは、室内に誰もいないことを翻るカーテンの隙間から確認すると、何かに強く導かれるようにそこへ足を踏み入れたのだった。
広くない、けれど狭い訳でもない部屋はしんと静まり返っている。そろりと両足の先を床に下ろしたデオキシスは、迷うことなく窓の突き当たりに置かれた棚に近寄った。
デオキシスの肩ほどの高さの棚にはいくつもの透明の箱が並んでいる。その中でも一際小さな透明の箱に、鋭く尖った銀色の石のようなものが飾られていた。
先程きらめいて見えたのは、これだろうか。棚のガラスに顔を近づけたデオキシスがその中を熱心に覗いていると、不意に部屋の扉が開いた。
「……」
振り返った瞬間、扉の向こうに立っていた人間とばちりと目が合った。みるみる内に人間の二つの目が丸くなる。それを見たデオキシスは、開け放たれたままの窓を真っ先に確認した。
叫び声が上がるよりも先に窓から抜け出そう。そう決めて、足の先に僅かに力を込めようとした時だった。
「デオキシス……?」
人間が困惑した声を漏らした。
てっきり叫び声を上げられるとばかり思っていたので、想像していたものとかけ離れたその反応にデオキシスの眉間にしわが寄る。
そんなデオキシスを他所に、人間は「……本物?」と小さく呟いた。無遠慮に突き刺さる視線。それは何だか居心地が悪く、デオキシスは身動ぎする。すると人間が慌てた様子で口を開いた。
「あっ、ちょっと待って。お願いだから逃げないで」
お願い。もう一度強く言った人間は、デオキシスを刺激しないようにと配慮してか、そうっと部屋に入ると静かに扉を閉めた。二人の距離が、僅か数十センチほどになる。
「……本当に、本物のデオキシス?」
デオキシスのことを凝視した人間は、「あれ、私夢でも見てる? どうやって起きたらいいんだろう」そんなことをぶつぶつ言いながら自身の頬をつねった。
自分の頬をつねった今の行動の意味は一体何なんだ。それよりも、見知らぬ存在が部屋にいたら普通は怯えないか?
デオキシスは困惑しながら目の前の人間を見つめるも、人間はそんな素振りを微塵も見せない。それどころか、ここから立ち去らないようにと引き留める始末だ。
先程の反応と、今のこの状況。それらがあまりにも予想外のことすぎて、デオキシスはどうしたものか考え込んでしまう。まるでサイコフィールドの上にでもいるかのような、不思議で奇妙な心地だった。
そうしている間に「あ」と小さく声を発した人間は、何やら小さな板状のものを洋服のポケットから取り出してそれをデオキシスに向けた。
見たことのない物体にデオキシスの目が奪われる。刹那、カシャ、と小さな物音が響いた。
「へへ、やった……! デオキシスの写真、ゲット……!」
噛み締めるように言われた言葉の意味も、人間が喜んでいる理由も理解できないデオキシスが首を傾げると、彼女は板状のそれがよく見えるように差し出した。
初めて目にするそれはとても怪しいものだったが、好奇心に負けたデオキシスは差し出されたそれに目を落とした。
「……そっか。もしかして、写真を見るのは初めて?」
板状のそこには自分のすがたがそっくりそのまま写っていたものだから、デオキシスは目を丸くした。
鏡のようなものかと思ったがどうやら違うようで、デオキシスがからだを動かしてみても、板状のそこにいるデオキシスはかなしばりでも食らったかのようにぴたりと動きを止めている。不思議なそれに首を傾げると、人間が笑った。
「これはスマホで、今は写真を撮ったの。写真は……うーん、その瞬間を記録するもの、かな?」
小さな板状のものは、すまほ。ここに表示されている絵のようなものが、しゃしん。
頭の中で人間の言葉を反芻して、ふうん、とデオキシスが頷くと、人間が「じゃなくて!」と声を上げた。
「……いや、何でデオキシスがここにいるの?」
あの後、結局立ち去るタイミングを失ってしまったデオキシスに人間はあれこれと話してくれた。
彼女の名がであること。ここ、トクサネシティにあるトクサネ宇宙センターという場所に勤めていること。宇宙が好きで、日々勉強していること。
それから、あの棚に並んでいた透明の箱のこと。透明の箱に飾られていたものは、今までに彼女が集めた宝石や隕石らしい。
ほしのかけらにすいせいのかけら。そしてデオキシスの惹かれたものが、ハジツゲタウンという町で見つかった隕石の欠片なのだと彼女は目を輝かせて語った。
棚に飾られた箱の中身を一通り、それも詳しい解説付きで説明し終えると、ひと仕事終えたかのような満足そうな顔でがベッドに座った。
さて、どうしたものかとデオキシスは立ち尽くす。すると「あなたも座ったら?」と声がかかった。デオキシスはほんの数秒考えたものの、大人しくの隣へ腰を下ろした。
デオキシスはこの短時間で得たいくつもの情報を頭の中で整理しながら、を見遣った。
は「すまほ」とやらをすいすいと指で操作して、自己紹介や棚に飾ったコレクションの解説の合間にも遠慮なく撮っていた写真を眺めている。
「……昔から宇宙のことが好きで」
コレクションについて語った時の熱気が嘘のような、静かで落ち着いた声。デオキシスはの手元に向けていた視線を彼女の顔へと向けた。
「宇宙にまつわるポケモンも……。例えばピッピとか、ピクシーとかが好きだったの。最近は忙しくて行ってないけれど、トクサネジムへソルロックとルナトーンを見に行ったりもしたなあ」
休みを取って、遠いところまで野生のリグレーを見に行ったりね。宇宙と関わりのあるポケモンは殆どこの目で見たはず。
そこまで話して、が「でも」と言葉を区切る。顔を上げた彼女と目が合った。
「デオキシスだけは写真でしか見たことがなくって……。それも、すっごく小さいすがたが端っこの方に写った写真」
そんな写真が? デオキシスが首を傾げると、何となく言いたいことは伝わったらしい。が「見てみる?」と言ってベッドから立ち上がる。それから部屋の隅にあるいくつもの本が並んだ棚に向かい、そこから一冊を抜き取ると、再びデオキシスの隣に座った。ベッドが少しだけ弾む。
「えーっと、どこのページだったかな……。あっ、ここだ。見てみて」
少しだけ古ぼけた本。が捲ったそのページには、本当に、本当に小さなデオキシスのすがたが写っていた。どこかの島の風景を映した写真。その上空の隅に、オレンジと水色のすがたがあった。
よくこんな写真を撮ったものだ。感心したデオキシスが僅かばかり目を丸くすると、が顔を上げた。
「だからね、本物のデオキシスをこの目で見ることができてすっごく嬉しいんだ」
それも、こんな間近で。彼女があまりにも嬉しそうに言うので、デオキシスはぽかんとした後に、何だかちょっとだけくすぐったいような心地を覚えたのだった。
全く知らない話に耳を傾けるのはそれなりに楽しくて長居をしてしまったデオキシスだったが、さすがにいつまでもここにいる訳にも行かなかった。
ベッドから音もなく立ち上がったデオキシスは、窓の外へ目を向ける。
デオキシスの視線が開け放たれたままの窓へ向けられていることに気が付いたが、「そろそろ帰る時間かな?」と名残惜しそうに言った。デオキシスは頷く。
「閉めるのをすっかり忘れていたけれど」
窓に目を向けたまま立ち上がったが言う。
「そのお陰でこうしてあなたが遊びに来てくれた訳だし、閉め忘れてよかったな」
不用心だな。と、デオキシスは呆れて小さく笑ってしまった。
二人並んで窓の前に立つ。デオキシスは部屋の中を見回して、最後にのことを数秒見つめた後、窓枠に片足の先を乗せた。
「……今日のことは誰にも言わずに秘密にするから、もしよかったら、また遊びに来てほしいな」
外に広がる夜空へ目を向けたデオキシスの背に、遠慮がちな声がかかる。
デオキシスは肩越しに振り返ると、ううんと悩む素振りを見せて、それから小さく頷いた。
もし、また気が向いたら。そんな時にはまたここを訪れてもいいかと思えるくらいには今日のこの時間は新鮮で、確かに楽しかったと思えたのだ。
そんなことがあってから、デオキシスは気が向いた時にトクサネシティの片隅にあるこの家にこっそりと足を運ぶようになった。
ベッドに寝そべった人間──はいつも通り本を読んでいた。彼女が起き上がると、ベッドのスプリングが掠れた音を立てる。
デオキシスはすっかり慣れた様子でベッドの前に移動して、フローリングに灰色の足先を下ろした。そうすると、「座ったら?」と声がかかる。これもまたいつも通りのことだ。だから遠慮なく、デオキシスはやわらかなベッドの上に腰を下ろした。
起き上がったが少し分厚い本を閉じてベッドの端に置く。それをデオキシスが何の気なしに目で追うと、視線に気がついたらしいが隅に追いやったばかりの本をもう一度手に取った。
「これ、気になるの?」
が本を差し出したので、デオキシスは静かにからだの形を変化させた。デオキシスが思うに、多分、一番人間に近いすがただ。
触手から五本の指に変化した両手で本を受け取ったデオキシスは、表紙をまじまじと見つめた。表紙には空の遥か向こう、宇宙で何度も見かけたことのある星がいくつか並んでいる。
高い知性を持つデオキシスは、の元を何度か訪れる内にいくつかの文字が読めるようになっていた。受け取った本の表紙の文字を指先でなぞる。そこには「宇宙図鑑」と記されていた。
「この本はね、星の写真と、それについての解説とか逸話が載っている本だよ」
ふうん、とデオキシスは頷いて相槌を打つ。が横から手を伸ばして、ページをパラパラと捲った。
見たことがある、見たことがある、これは見たことがないかもしれない、見たことがある、あったような気がする。そんな風にデオキシスが目に入る星を順番に分類していると、が口を開いた。
「デオキシスはいいなあ」
唐突なその言葉に、デオキシスは星の分類を中断するとの顔を見つめた。一体何が? 首を傾げたデオキシスの言わんとすることがには分かったのか、「だって」と言葉を続ける。
「宇宙へ好きな時に行けるのがいいなあって思ったの。私はそうもいかないから、羨ましいや」
の言葉を聞いたデオキシスは、何だそんなことかと呆れてしまった。
宇宙へ行きたいのならそう頼めばいい。他でもない彼女の頼みならいつでも、何なら今からでも連れて行ってやるのに。
そう考えたところで、デオキシスはハッとした。
自分はそこに空気があろうとなかろうと生命活動に一切支障はないが、人間はそうもいかないのだということを思い出したからだ。
──何なら自分は例え横っ腹に大きな風穴が開いても、からだの大半が吹き飛んでも、「じこさいせい」ですぐに元通りになるし、死ぬこともない。
しかし、人間はというと。横っ腹に大きな風穴が開いたらきっと死ぬだろうし、自分には造作もない「じこさいせい」も使えず、傷が癒えるまでには随分と時間がかかる。例え小さな傷であっても、瞬きの間に完全に元通り、とはいかないのだ。
デオキシスの脳裏に、いつだったか本のページで指先を切ってしまったのすがたが浮かび上がった。続けて、絆創膏というものを傷口に貼るすがたも。
デオキシスはその時初めて「人間はからだに傷を負ったとしても、すぐに治らない」ということを知って、ひどく驚いたのだった。
空気のあるところでしか生きられない。傷を治すのにも時間がかかる。
と過ごすようになって知ったことだが、人間はデオキシスが想像していたよりも、遥かに脆くて不便ないきものだった。
その違いがデオキシスにとっては新鮮で、面白くもあるのだが。
「……何かついてる?」
あんまりじっと見ていたからか、が不思議そうに首を傾げた。
いいや、とデオキシスは首を振る。
宇宙に連れていくことはまあ、無理だとして。その代わりに何かをしてやれたらいいのだけど。
この時デオキシスがそう思ったことを、退屈そうに口を尖らせるは知る由もない。
ある日のこと。いつものようにデオキシスがの元を訪れると、机の前で彼女は頭を抱えていた。窓をくぐる際に分かりやすく物音も立てたのに、それにすら気がつかないほどは何かに悩んでいるようだった。
ああでもない、こうでもない、と何かをブツブツ呟いている。その姿は、さながら呪詛を吐くゴーストタイプのようだ。
異様というか、何というか。見たことのないの様子に呆気にとられながら、デオキシスは機動力に特化したすがたから人間に一番近いすがたへ変化する。それでもまだは侵入者に気がつかない。
デオキシスは迷った末にの傍らに立つと、ちょん、と控えめに肩をつついた。の肩が分かりやすいほどに跳ねる。
「びっ……、びっくりした」
デオキシスをその目に捉えたが、ホッと息を吐いて肩から力を抜いた。
「全然気が付かなかったな。いらっしゃい」
の言葉に頷いて、それからデオキシスは机の上に目を向けた。机の上にはノートが広げられていて、そこを囲む壁のように宇宙にまつわる本が積み上げられている。
デオキシスが首を傾げると、が「ああ、これ」と溜め息を吐いた。
「三ヶ月後、宇宙センターで三十回目のロケットの打ち上げがあるの。ロケットの打ち上げに合わせて、毎回職員たちで色んな展示コーナーを作るらしいんだけど……」
デオキシスが頷いて相槌を打つと、が肩を落とした。
「子供向けの展示コーナーの担当がね、私になったんだ。それで、何をしたらいいかいろいろ考えているんだけど……。何も思い浮かばないの」
ノートの上に転がしていたペンを取ったが、器用に指先でそれを回す。
デオキシスは彼女の指先でくるくると軽やかに回るペンを見て、それから広げられたノートに視線を落とした。紙を埋め尽くすほどのたくさんのメモから、が随分と努力はしているものの、苦戦しているのが見て取れる。
「はー、ダメだな。本当に何も思いつかない。……何か息抜きでもしようかな」
椅子から立ち上がったが伸びをする。完全に参ってしまっている彼女の様子を見ながら思考を巡らせたデオキシスは、あることを思いついた。
散々本を読んでいたくせに息抜きと言って別の本でも読むつもりなのか、本棚に向かおうとしたの背をデオキシスは指先で軽くつつく。
「何? どうかした?」
デオキシスは振り返ったの手を引いて窓に向かう。何の抵抗もなくついてくるものの、彼女の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
「……窓の外に何かあるの?」
デオキシスが頷くと、は窓枠に手をかけて外を覗こうとした。それをさっと制止して、手を引くとそのまま素早く抱き上げる。
「え?」
デオキシスの行動は、彼女にとって思いもよらないものだったのだろう。が驚きの声を上げた。
「はっ!? え、ちょ、何? 待っ……」
何故かデオキシスに両手で抱き上げられている。
それだけは何とか分かるものの、これから何が起こるのか想像もつかないのからだが強ばった。
デオキシスが腕の中に視線を落とすと、見上げると視線がぶつかった。その目はすっかり恐怖に染まっている。
そんな彼女にはお構い無しに、デオキシスは両開きの窓から外へ出た。藍色のカーテンが二人を見送るようにはためく。が「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「む、無理。ねえ、ちょっと!? う、う、浮いてるし! あしっ、足が……お、落ち」
大丈夫、大丈夫。人間の脆さは分かっているので。ちゃんとスピードは落として運ぶから安心するように。
デオキシスがを安心させるためにうんうんと何度も頷くと、は「いや何!?」と声を上げた。
このまま騒がれたら、いくら隣の家とは距離があると言えど誰かに気が付かれそうだ。
そう考えたデオキシスはサイコキネシスで窓を閉めてしっかり鍵もかけると、が腹の底から叫ぶよりも早く、星が散らばる夜空に勢いよく飛び出したのだった。
二人がやって来たのは、ホウエンの海に浮かぶ小さな島だった。切り立った崖は険しく高く、島から見下ろすと海面が随分と下にあるように見える。空を飛ぶ術を持つ者だけが辿り着ける、そんな場所だ。
叫び疲れたのか、ひんし状態のようにぐったりとしているをデオキシスはやわらかい草の上にそっと下ろす。
デオキシスからしてみれば、いつもより随分と遅い飛行速度だった。多分、最高速度の半分にも届かない。サイコキネシスで空気の流れを捻じ曲げて、吹き付ける風からも守った。それに何より、家からこの島までそんなに長い時間もかかっていない。
しかしからしてみればとんでもない速度であり、長い時間だったのだろう。
「久しぶりの地面……」
そう言って目を閉じた彼女は草の上へ仰向けに倒れてしまった。
やはり人間は脆いなあ。デオキシスは倒れてしまったを呆れたように見下ろす。けれどそう思ったところでどうにもならないので、彼女が起き上がるのを大人しく待つことにした。
が起き上がったのは、随分と時間が経ってからだった。
起き上がった勢いで、彼女の頭の上に乗っていた細くて長い草がパラパラと落ちる。彼女が起き上がるのを待つことに早々に飽きていたデオキシスが、退屈しのぎにそこらから引っこ抜いては勝手に乗せていたものだ。
「本当に死ぬかと思った……」
デオキシスが乗せていたことを知らないまま、が頭の草を払いながら呟く。
いきなり抱え上げて、強制的にここまで運んだこと。それに対して悪びれる様子もなく隣に座ったデオキシスをジトッとした目で見たは、文句でも言おうとしたのだろう。眉間にしわを寄せて、きゅっと結んでいた口を開いた。
そこでようやく彼女は、今、自分がいる場所と状況を理解したようだった。
「あ」
たったそれだけの声を漏らしたは、また元のようにやわらかな草の上に倒れた。
デオキシスはの視線の先を追う。
そこにあるのは、街で見るよりも遥かに賑やかな星空だ。遮るものが何ひとつない空で、ただ無数の星がそれぞれの輝きを放っている。
ここには何度も崖を打つ波の音があって、潮の香りもあって、風に合わせてやわらかな草が肌を撫でる感触もある。星々のきらめきは、今ここで見ているものの方が明るい。
実際にデオキシスが見ることのできる宇宙との違いは多々あった。
それでもトクサネシティの彼女の家よりも、トクサネ宇宙センターよりも、が憧れを抱く宇宙には近かった。
仰向けになって宙を一心に映すの目は、今までで一番の輝きを宿している。家でのゴーストタイプのように呪詛を吐いていたすがたも、さっきまでのひんし状態もすべてが嘘のようだ。
どうやら息抜きには成功したらしい。満ち足りたの顔をそっと盗み見たデオキシスは静かに肩の力を抜いた。
随分と長い時間のあと、は星空からデオキシスへと目を向けた。
「ありがとう」
がデオキシスへ手を伸ばして、同じ五本の指の手を握る。夜風に熱を奪われたのか、触れた彼女の手はひやりとしていた。
「きっとこんな素敵な星空は、私だけじゃ一生見られなかったんだろうなあ……」
デオキシスがわざとらしく胸を張ると、それがおかしかったのかは笑い声を上げた。
「さて、そろそろ帰らなくっちゃ」
ひとしきり笑った後、がデオキシスの手を引いて立ち上がった。
もういいのか。デオキシスが首を傾げると、は少しだけ迷う素振りを見せたものの頷いた。
「本当はずっとここにいたいくらい。けれど、もう大丈夫」
の瞳がきらめく。ここへ来て、彼女は何かを掴んだようだった。
ポケモンの中には──例えばデオキシスと同じエスパータイプのポケモン──ゴチルゼルやジラーチには、ある程度先の出来事を知ることができる力が備わっている。しかしデオキシスにはそういった「みらいよち」の力はない。
けれど、デオキシスには確信めいた予感があった。
きっと、三ヶ月後の三十回目のロケット打ち上げの日の展示は上手くいくだろう。
来た時と同じように、デオキシスはのことを抱き上げる。「ああ……そうだった……」つい先程までの弾んだ声色はどこへいったのか。が絶望したような表情を浮かべる。
「星空を見た感動が消えそうなので、帰り道はゆっくりでお願いします……。できれば、来た時の半分以下くらいのスピードで……」
分かっているから大丈夫。デオキシスはが安心できるように、にっこり目を細めて力強く頷いてみせる。
それを見たは、青ざめた顔で「やばい。今度こそ本当に死ぬかもしれない」と呟いた。