秋が近付き、緑と茶色が入り交じったなだらかな丘。その丘を下った先にある池の畔に、ガブリアスは一人腰を下ろしていた。時折池の水面に跳ね上がるコイキングやニョロモの立てる水音が、静かな夏の終わりの空気を震わせる。

 暫くの間ぼうっとしていると、不意にどこからか名前を呼ぶ声が聞こえ、ガブリアスは少しだけ顔をしかめた。
 その声は段々と大きくなり、それに連れてぱたぱたと駆ける足音と、丘の草を揺らす音がガブリアスの元へと近付く。やがて一層それらの音が大きくなったかと思うと、呆れたような「もう」という声が聞こえた。

「ガブリアス!どこに行っちゃったのかと……」
 
 ガブリアスの隣に立ち、軽く肩を上下させながら困り顔で口を開いたのはだ。このガブリアスがある理由から傷だらけで倒れていたところに偶然にも通りかかり、家に連れ帰って手当をした人間である。

 ガブリアスはをちらりと見遣ると、すぐにぷいと顔を背けた。はガブリアスのそんな態度に目を丸くすると肩を竦めたが、すぐに優しげな口調で語りかける。

「そろそろ帰らない?それとも、もう少しここにいる?」

 に尋ねられ、ガブリアスは顔を背けたままぐるると低い唸り声を上げた。俺に構うな、そう言いたげな態度にが呆れたように思わず小さく溜め息を吐く。しかしすぐに何かに気が付いた様子で顔をぱっと明るくさせると、背けられたガブリアスの顔を覗き込んだ。

「……歯茎の色が健康的に戻ってる!体つきも前よりしっかりしてきたみたいだし……」

 がガブリアスを連れ帰ったばかりの頃、ガブリアスの体は衰弱して痩せ細っていた。しかし今は体の傷も少しずつ治り、の言葉通りに体つきもしっかりとしたものに戻りつつあったのだ。

 一方唸り声を上げて威嚇をした相手にまさかそんなことを言われるとは思わなかったガブリアスは、思わず呆気に取られて牙を剥き出しにしたまま固まってしまった。はそんなガブリアスを他所に、よかったねえ、なんて呑気に笑っている。
 ガブリアスははっとした様子を見せると、慌てて立ち上がった。そして不機嫌な様子を隠しもせずに、再度威嚇するように地面を尾で力強く叩いてから背を向けて立ち去ってしまう。

「あっ、こら!待ってよー!」

 の呼びかけは届いているだろうに、ガブリアスは振り返らない。は慌てて少しずつ遠ざかる紺色の背を追った。

***


 ガブリアスがに保護された日。そもそも何故、その日ガブリアスが傷だらけで倒れていたのかというと、ガブリアスは自分の棲み処にしていた洞窟の近くで鉢合わせしてしまったもう一匹のガブリアスと縄張り争いを起こし、その争いに敗れたからだった。

 縄張り争いに負けたガブリアスは棲み処を追われ、争いでぼろぼろに傷付いた体を引き摺るようにして棲み慣れた洞窟を立ち去った。そうして宛もなくさ迷って、力尽きてしまったところをが発見したのである。

 生憎ガブリアスが倒れていた場所からポケモンセンターは遠く、それより家の方がまだ少しは近かったので、は家に連れ帰って手当をした方がよさそうだと判断した。しかしガブリアスの巨体を一人で運ぶのは到底無理な話で、そのためはその時丁度持っていた空のモンスターボールでガブリアスを捕まえたのである。

 このことからガブリアスはのポケモンということになっているが、ガブリアスはに懐く様子をちっとも見せず、それどころか邪険に扱っていた。

 縄張り争いに敗れた上に人間に捕まって手当てまで受けたということは、ガブリアスのプライドをズタズタにし、その心にまるで鋭い棘が刺さってしまったような、深い傷を負わせてしまっていたのだ。


***


 いよいよ秋が始まったある日のことだ。その日とガブリアスは家の外の庭に出ていた。とは言ってもガブリアスはボールの中でじっとしていたかったのだが、によってボールから庭に出されたのである。そのはと言うと、庭に植えられた木の実の世話に忙しそうにしていた。

 ガブリアスは庭の隅で腰を下ろしてじっとしながら、特にすることも無いので木の実を世話をするの背を眺めていた。が丁度今水を遣っている木の実がクラボ、オレン、モモン、オボンという種類だということは分かったが、それ以外の木の実は眼にしたことが無かったのでガブリアスには種類が分からない。
 というのも、種類が分かったそれらの木の実は、ガブリアスが棲み処にしていた洞窟の外の森にもよく成っていたからだ。そのことを思い出すと、ガブリアスは一人顔を顰めた。前の棲み処のことなんて思い出したくもないようなことを思い出してしまったからだ。

 ガブリアスがそれを忘れるように頭を振ると、その様子に気がついたがガブリアスに目を向けた。

「ガブリアス、どうしたの?どこか具合でも悪い?」

 手にしていた軍手と小さなスコップ、それから如雨露を置くとは眉間に皺を寄せながらガブリアスの元へとやって来る。ガブリアスはが眼の前に立つと、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「特に何ともないならいいのだけど……。あっ、そうそう。木の実が食べ頃だと思うから、よかったら食べてみる?」

 が顔を輝かせてそう尋ねると、ガブリアスはちらりと眼を向けた。その様子から木の実に興味があるようだと判断したは、ガブリアスの手を取るとおいでと言いながら軽く手を引く。
 
 に手を引かれたガブリアスは最初、いつもの如く唸り声を上げて手を振り払おうとしたが、ちらりと見えたの顔がどことなく嬉しそうであることに気が付くと、思わず毒気が抜かれるかのようにその気が失せてしまった。せめてもの抵抗をするように、小さく舌打ちをしての後に続く。

 そうして手を引かれたまま植えられた木の実の前にやってくると、そこで漸くはガブリアスの手を離した。

「ガブリアスはどれが食べたいかな。マトマ?それとも、ノワキの実?オッカもあるけれど……」

 が指差した木の実を順に見て、それらはマトマ、ノワキ、オッカという木の実なのかと思いながら、ガブリアスはに眼を向ける。はガブリアスの視線に気が付くと、ノワキの実に向けていた視線をガブリアスへと向けた。

「食べてみる?すっごく辛いみたいだよ」

 その言葉に思わずごくりと喉を鳴らしながら、ガブリアスはあることに疑問を抱いた。が食べたいかと尋ねた木の実は、どれも見るからに辛そうなものばかりなのだ。
 辛い味が一番好きなガブリアスは、そのことをこいつは知っていたのかと思いながら庭に埋められた木の実を見回した。すると色んな木の実が満遍なく植えられているのだが、その中でも見るからに辛そうな木の実が多く育てられているのが分かる。

 そのことに気が付いたガブリアスは何とも言えないような表情を浮かべ、それからノワキの実を指し示した。それを見たは、笑顔でノワキの実を一つ採るとガブリアスに手渡す。
 ガブリアスは渡されたノワキの実を意を決したように口にすると、驚いたように眼を見開いた。覚えてはいない技のかえんほうしゃでも吐くことが出来そうな程に、ノワキの実がとてつもなく辛かったからだ。それでも辛い味が好きなガブリアスは、思わずばくばくとノワキの実を平らげてしまった。

「どう?美味しい?」

 そんなガブリアスの様子にが笑みを浮かべると、ガブリアスは気不味そうに眼を逸らした。それでもが今度はオッカの実を差し出すと、それも少しの間を置いてからゆっくりと口をつける。

「ふふ、気に入ってくれたみたいでよかった!頑張って育てた甲斐があったよ」

 ガブリアスがオッカの実もぺろりと平らげたことに満足そうに頷くと、はまた軍手と小さなスコップ、如雨露を手に取った。

「私は他の木の実の手入れをするから、ガブリアスはよかったら好きな木の実を食べてて」

 そう告げると、はガブリアスに背を向けて再び木の実の手入れを始める。ガブリアスはその後ろ姿を、じっと見つめていた。

 それから暫くして、いくつかの木の実を食べた後に物思いに耽っていたガブリアスはの「風が冷たくなってきたし、そろそろ中に戻ろうか」という声にはっとした。辺りを見回すと、いつの間にか日は暮れて薄暗くなっている。

 ガブリアスは立ち上がると、先に玄関へと向かったの後に続いた。秋の夜空に、コロボーシ達の美しい鳴き声が響いている。


 その日の真夜中、ガブリアスは玄関の隅でぼんやりと考え事をしていた。ガブリアスは眠る時、いつも玄関の隅で眠っている。それは眠りに就いている無防備な状態を敵に晒すのは危険だという野性の頃の名残でもあるし、そんな無防備な状態を敵意が無いとは言えど人間に見せるのも、というガブリアスなりのへの抵抗でもあった。

 考え事を止めたガブリアスは徐に立ち上がると、薄暗い家の中、の眠る寝室へと向かった。本来洞窟に生息するガブリアスの眼は、暗闇でもよく見える。

 そうして何かに躓くこともなく辿り着いた寝室へと静かに入り込むと、ベッドの上で小さな寝息を立てるの姿が見えた。ガブリアスはの寝顔を、眉間に皺を寄せながら見つめる。

 間抜け面め。

 ガブリアスはの寝顔を見ながらこっそりと悪態をつき、眉間に皺を寄せるのを止めると呆れたように息を吐く。傷だらけの自分のことを連れ帰って手当てをし、邪険に扱われようとも今日まで変わらない態度で接するの態度を思い返すと、溜め息をつかずにはいられなかった。

 それから自分の為にと土だらけになって毎日木の実の手入れをする姿も思い出すと、いよいよ小さく笑ってしまった。

 こんな自分の為にあれこれと努力するも、いつまでも意地を張って変わらずにいようとする自分自身も、馬鹿みたいだ。そう思ってしまったのである。稍あってからガブリアスは寝室の隅に腰を下ろすと、眼を閉じた。
 窓の外では、丸く美しい金色の月が淡く輝いていた。

 朝になりは寝室の隅で眠っているガブリアスに気が付くと当然ながら驚いたが、すぐに嬉しそうに笑顔を浮かべた。ガブリアスを連れ帰ったあの夏の終わりの日から随分と時間は過ぎていたが、ガブリアスが自分から歩み寄ってくれたのはこれが初めてだったのだ。
 そして眼の前にが立つと、その気配にガブリアスはすぐに眼を覚ます。そしての顔を見つめると、少し気不味そうに眼を逸らした。

「ガブリアス、おはよう」

 いつものように唸り声を上げられるだろうか。そうは思ったが、ガブリアスは唸り声を上げることはせずに逸らしていた視線をもう一度に向けると、驚くことに微かに頷いて見せた。
 ぎこちない態度ではあるが、まさか返事を返してもらえるとは思いもしなかったが目を見開いて固まると、ガブリアスは眼を泳がせてあー、だとか、ぐう、だとか小さく声を漏らし、それからどたどたと慌ただしく寝室を飛び出していってしまった。

 ガブリアスが歩み寄ろうとしてくれているのだということを確信したは、照れ隠しで寝室を飛び出したガブリアスの後を追う。


 そしてその日から、ガブリアスのへの態度はほんの少しずつ軟化していった。
 それまでは呼びかければそっぽを向いたり唸り声を上げたりしていたが、ぎこちなく頷いたりするようになった。街への買い物も前まではボールの中から外に一切出ようとしなかったが、少しずつボールの外に出るようになり、野生のポケモンが飛び出せば追い払ってくれるようにもなったのである。

***
 

 秋が終わり木枯らしの吹く冬が始まる頃にはぎこちなかった態度も薄れ、ガブリアスはボールの中に戻ることは少なくなり、の近くにいるようになっていた。


「昨日ね、庭に新しい木の実を植えたんだ」

 窓の傍に置かれた椅子に座り、窓から外を眺めながらが口を開く。
 窓の外では数日前から降り始めた雪が、今日も景色を白一色に染めていた。部屋の中ではストーブの火が赤々と燃えているが、その白一色の景色は見ているだけで肌寒く感じる。ガブリアスはの隣で同じように窓の外を眺めてから首を傾げた。

「なんの木の実だと思う?」

 ガブリアスが右に傾げていた首を今度は左側に傾げると、はふふん、と少し得意そうな表情を見せる。

「チイラの実、っていう木の実!もちろん辛い木の実だよ」

 それを聞くと、ガブリアスはぎゃあと小さく鳴き声を上げた。どことなく輝いて見える瞳に、は笑顔を浮かべる。秋の頃に比べたら随分と表情や感情が豊かになったガブリアスの姿は、見ていてを幸せな気持ちにさせるのだ。

「冬だから成長に時間は掛かると思うけど、育つのが楽しみだね」

 ガブリアスは頷くと、埋められた木の実が気になるのか寒いのが苦手にも関わらず窓により一層近付いた。しかし途端に伝わる窓の外からの冷気に慌てて後退る。

「もう、寒いのは苦手なんだから、大人しくストーブの傍にいなさい」

 は笑いながら椅子に掛けていたマフラーを手に取ると、ガブリアスの首に巻いてやった。マフラーを巻かれてその暖かさに眼を細めたガブリアスは、頷いてから大人しくストーブの前を陣取る。



 それから暫くの間、は外に植えた木の実はこの毎日降り続く雪で弱ってしまっていないだろうか、などと考えていたが、不意に聞こえた欠伸に思考を中断させた。見れば、ストーブの前に座ったガブリアスがうとうとしている。その様子を眺めていたは、椅子から立ち上がるとガブリアスの隣に座った。ガブリアスが重そうな瞼を持ち上げてを見つめる。

「……おやすみ」

 乾いたガブリアスの額に手を触れさせて優しくそこを撫でると、その手の動きに合わせて、重そうな瞼がまた下がっていく。
 しばらくして聞こえ始めた微かな寝息に、は穏やかに口元に弧を描いた。

 窓の外では相変わらず白い大粒の雪がはらはらと舞っている。冬はまだまだこれからだ。それでも冬が終われば、辺りを真っ白に染め上げている雪もやがて訪れる春の足音に解けていくだろう。
 春が来たらガブリアスと近くの桜並木を見に行こうかな。そんなことを考えながら、まだまだ先の雪解けの日には思いを馳せる。
 
 
氷のとげがとけるころガブリアス/7位



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