決して雨が嫌いな訳ではないが、それでもどこか陰鬱な気分になるのは、雨がもたらす静かな空気故だろうか。そんなことを考えていると耳に雨粒が落ちて、思わずふるりと首を振る。
雨によって色素が洗い流されてしまったように見える景色はいつもより何だか味気なく見えて、ラティオスは溜息を吐いた。そうして暫くの間ぼんやりしていると、不意にどこからかぱしゃぱしゃと足音が聞こえたので、ラティオスはゆっくりと顔を上げる。
ラティオスがいるのは保護区にも指定されているとても広い公園だ。森林を抜ければ草原があって、更には湿地帯もある。そのため多種多様なポケモンがのんびりと暮らしているが、この足音は誰だろうか。雨続きではしゃいでいるハスブレロかもしれないな。
そう思いながら、退屈凌ぎでもしようとラティオスは翼を広げると木々の葉の傘の下から飛び立った。
足音の主はすぐに見つかった。木々の間を抜けた先、草原の隅にある小さな休息所。そこに一人の人間が座っていたのだ。「コ」の字に並べられた休息所のベンチの角に座り、屋根の下から雨に煙る草原を眺めている。
休息所に程近い木々の後ろから、雨の中僅かな光を屈折させて姿を隠したラティオスはその様子を見つめた。人間は何をするでもなく、ただぼんやりと草原を眺めている。雨のせいでいつもより淡く見える風景、静かな雰囲気の中、その姿だけがやけにはっきりと見えた。
それから数十分もすると、人間は満足した様子で立ち上がった。畳んでベンチに立て掛けていた傘を手に取ると、そっとそれを開く。ぽん、と音を立てて薄紫色の花が咲いた。
何だか紫陽花みたいだ。遠ざかっていく人間を見送りながら、ラティオスはそんなことを考えていた。
その次の日も、やはり小雨が降り続いていた。公園内は変わらずひっそりとしている。
ラティオスはふと、昨日見た人間のことを思い出した。何をしに来たのか、休息所にぼんやりと座っていた人間。あの人間は何をしに雨の中やって来たのだろう。
特にすることが無く退屈だからか、一度気になると頭の中はそればかりだ。今日も来ているのか気になったラティオスは、静かに翼を広げると休息所のある方へと飛び立った。
休息所には、昨日の人間がまたも座っていた。ただ昨日と一つ違っていたのは、その隣に小さなチョロネコが座っていたことだ。
そのチョロネコは、晴れの日にラティオスがよく追いかけ回して遊んでいるチョロネコだった。いつもはふさふさとしている毛も、雨に濡れた今は体にぴったりと張り付いて、それが何だか少しだけ貧相に見える。
「そんなに濡れちゃって、大変だね」
人間とチョロネコの様子を伺っていると、不意にそんな声が聞こえて、ラティオスの耳が思わずぴくりと動く。どうやら人間がチョロネコに話しかけているようだ。ラティオスは姿を消したまま耳を澄ます。
「風邪を引いたら大変」
薄い青色のハンカチを鞄から取り出して、人間がチョロネコの額に当てた。チョロネコは大人しくされるがままになっている。それを見ていたラティオスは、暇潰しにあのチョロネコを驚かしてやろうなどと考えて、休息所に近付いた。
するといつもラティオスに追いかけ回されているチョロネコはその気配を鋭く察知したのか、小さく息を呑むと慌てて休息所を飛び出していってしまった。
突然のことに驚いた人間は、あっと声を上げて立ち上がり、チョロネコが走り去っていった方を呆然と見つめていた。
その間に休息所の屋根の下へと辿り着いたラティオスは、光で屈折させていた姿を現すとふるふると雨粒を払うように体を震わせた。その音に気が付いた人間が振り向いて、途端に目を見開く。
「きゃっ!」
突然姿を現したラティオスに悲鳴を上げて後退った人間は、そのまま尻餅をついてしまった。まさかそんなに驚くと思わなかったラティオスは、それを見てひゅわんと鳴き声を上げて笑う。
「ら、ラティオス……!?」
こんな所に棲んでいるなんて、そう呟いた人間に、ラティオスは一頻り笑ってから手を差し伸べた。人間は更に驚いた表情を浮かべたが、そっとラティオスの手を取る。ラティオスは人間がしっかりと手を握ったのを確認すると、その手を引っ張って立ち上がらせた。
「ありがとう」
ラティオスの手を離し、服の裾を払いながら人間は笑った。それからベンチに座ると、人間は物珍しそうにラティオスのことを見つめる。ラティオスも同じように人間の姿を見つめ返した。
「……この公園にはよく来るけれど、ラティオスは初めて見たなあ」
感心したように呟かれて、ラティオスはふふんと鼻を鳴らした。それから、どうして君はこんな雨の日にここにやって来たんだい、と、くるると鳴きながら首を傾げて人間を見つめる。
「ん……?あ、私は。よろしくね」
人間には当然ながらラティオスの言葉は伝わらず、彼女は何かを勘違いした様子でそう名乗った。人間とポケモンでは言葉が違うのだと言うことに気が付いたラティオスは、思わず困った様子で肩を竦める。しかしすぐにまあいいか、と考えると、だね、と心の中で繰り返した。
「ラティオスは、こんなところで何をしているの?」
尋ねたかったことを逆に尋ねられて、ラティオスは眼を丸くした。それから単なる暇潰しなのだと一応答える。しかしやはりと言うべきか、にはラティオスの言葉は伝わらなかった。
「だめだ。ポケモンの言葉は分かんないや」
口をへの字にして難しい顔でそうが言うので、ラティオスはだろうね、と笑った。
「ポケモンは人間の言葉が分かるのにねえ」
不服そうというか、少しつまらなさそうにが溜め息を吐く。それから思い出したように鞄からポケナビを取り出すと時刻を確認し、そろそろ行かないと、と立ち上がった。
「今日はラティオスに会えて良かった。またね」
ラティオスに手を振ると、あの紫陽花のような傘を開いては雨の下を歩き出す。
ラティオスはその後ろ姿を見送ってから、あることに気が付いた。はまたね、と言ったのだ。
その「また」っていつなんだろう。ラティオスは首を傾げる。それからまあいいか、と一人頷いた。何にせよこの退屈な雨の日の退屈しのぎにはなりそうだ、と。
*****
とラティオスが次に会ったのは、それから三日後のことだった。久しぶりに昨日と一昨日は晴れたのだが、その日は公園にやって来なかった。そして再び天気が崩れた三日目の今日、ラティオスがあの休息所にやって来ると、そこにはがいたのだ。
「こんにちは、ラティオス」
ラティオスがふるりと喉を鳴らして挨拶をする。それから今日はどうしたのかと首を傾げると、はふむ、と考え込む素振りを見せてから口を開いた。
「お腹でも空いてるの?お菓子ならあるけれど」
そんなこと言ってないよ、とラティオス舌を出すと、は違ったかあ、と残念そうに笑った。それからお菓子、いる?と言いながら、ベンチに置いていた鞄に手を伸ばす。
彼女が鞄から取り出したのは、小さなケーキのようなお菓子だった。桃色のクリームに、星形の薄いチョコが乗っている。
思わずラティオスが凝視すると、がこれはポフレというのだと教えてくれた。ラティオスはからポフレを受け取ると、まじまじと眺めてから匂いを嗅いだ。自然の中で暮らしていては絶対に嗅ぐことがないような甘い匂い。
三日前に会ったばかりの人間から食べ物を受け取って口にするのもなあと一瞬考えたが、こうして姿を見せて至近距離にいる時点でそんな警戒も無意味だろうか、と結論付けて、ラティオスはポフレを口にした。
そうして初めて口にしたポフレは、よく熟れたモモンの実のように甘い味だった。思わず眼を瞬かせて咀嚼する。
「どう?美味しい?」
自分の膝に肘を乗せ、頬杖をついていたが尋ねると、ラティオスはこくりと頷いた。それを見たの顔が、ふわりと綻ぶ。
それからとラティオスは、あれこれと話をした。とは言ってもにはラティオスの言葉が分からないので、彼女の言葉にラティオスが頷いたり首を振ったりしての会話だった。
そしては帰る時間になると、また三日前のように「またね」と告げて立ち去っていった。
*****
二人の間には確かな約束があった訳ではなく、ただが言う「またね」という言葉がそこにあるだけだったが、 それでもとラティオスは、少しずつ公園の休息所で会うようになっていた。
「雨の降る日の、誰もいないような静かな雰囲気が好きなの」
二人で会う、何度目かの雨の日。は休息所のベンチで雨に白くぼやけて見える草原を眺めながらそう口にした。それを耳にしたラティオスは、だからは雨の日にだけこの場所にやって来るのか、なんて思いながら橙色のポフレをかじる。
「ラティオスは雨の日は好きなの?」
そう尋ねられ、ラティオスはううんと考え込んだ。嫌いという訳ではないのだが、雨の日は退屈でどこか陰鬱な気分になるから好きではなかった。それでも最近はこうしてという話し相手が出来たことで、雨が降っていても退屈な気持ちになることは少なくなっている。ラティオスがにこりと笑うと、はそう、と釣られたように笑った。
今日の天気は元より小雨だったが、その勢いは弱まっている。分厚い雲の層が少しずつ薄れて、空も灰色ではあるがどこか明るい。
「そろそろ帰ろうかな。……そういえば梅雨が明けるね」
ラティオスが口の端についたポフレの欠片をぺろりと舐めながら顔を上げる。は傘を開きながら、ラティオスに目を向けた。
「梅雨が明けてここに来ても、ラティオスに会える?」
ラティオスはその言葉に少しだけ驚いたが、すぐに頷いてみせる。と過ごす時間を、ラティオスはいつの間にか楽しいと思うようになっていたのだ。それを見たは、嬉しそうにも安堵したようにも見える顔でまたね、と告げて立ち去っていった。
そうして季節が流れ、雨の降る季節が去り、雨の代わりにテッカニンの蝉時雨が降るようになっても、とラティオスは公園の隅のあの休息所で会っていた。
梅雨の時期、二人で紫陽花の群れの中を歩いたことがあったが、夏になると他の人に見えないようラティオスが姿を消して向日葵畑を並んで歩いたり、湿地帯の水辺の上を飛び交うバルビートやイルミーゼの蛍火を見たりもした。
時間を重ねるに連れて、自然と笑顔でいる時間が増えていく。確かに少しずつ、二人の距離は縮まっていった。
公園の木々の葉が赤や黄色に色付いて落ち葉の雨が降る季節が来ても、二人は変わらずに公園のあの人目につかない休息所で会っていた。
移り行く季節を、二人はいつの間にか当然のように共に過ごすようになっていたのだ。
*****
そしてそれからも月日は流れ、季節はいつの間にか雪の降る冬を迎えていた。
晴れの日には公園に棲む多種多様なポケモンの姿を見ようと利用者でそこそこ賑わうが、雪の降るその日はとラティオスが初めて会った日のようにしんと静まり返っていた。
休息所の屋根の下でラティオスの額を撫でていたが、唐突にあ、と声を上げる。ラティオスが不思議そうにを見遣った。
「見て。シキジカだよ。可愛いね」
が指差した方を見れば、真っ白な草原の上を毛色をすっかり茶色に染めたシキジカが数匹、元気よく駆け回っているのが見えた。シキジカが駆ける度、地面に積もった白い雪が舞い上がる。
近くに見に行くかい?ラティオスが首を傾げて手を差し出すと、は笑顔でラティオスの手を取ってベンチから立ち上がった。
「これくらいの雪なら、傘はいいかな」
あの梅雨の季節には紫陽花の花のように見えた傘を今日もは持ってきていたが、舞い落ちる雪の強さを確認すると、ベンチに立て掛けたまま休息所の屋根の下を出た。
さくさくというの足音だけが、白銀の世界の中で大きく響いている。ラティオスは寒いのが苦手だったが、の手のひらから伝わる温もりがその寒さを忘れさせてくれるようだった。思わず少し、手を握る力が強まる。がどうしたのかと尋ねると、ラティオスは何でもないのだと首を振った。
手を繋いで歩く、白一色に染まった草原。シキジカ達はとラティオスが近くにやって来ると、まるで新しい遊び相手を見つけたかのようにはしゃいだ。臆する様子も見せずに、とラティオスの周りをくるくると跳ねる。
ラティオスから手を放したはシキジカの背を撫でたり、シキジカに服の裾を軽く引っ張られたりしてきゃあきゃあとはしゃぎ声を上げた。
ラティオスはほんの少しだけとシキジカ達から離れると、目の前の楽しそうな光景にこっそり笑った。に向けたその瞳は、焦がれるような熱を孕んでいて、まるで大切な宝物を眺める時のように穏やかだ。
やがて遊ぶことに満足したシキジカ達が森の方へと走り去ると、は少しだけ寂しそうにシキジカ達が姿を消した森を見つめた。それから足元の雪を小さく蹴ると、少し離れた場所で宙に浮かぶラティオスへと振り返る。
「……よし、戻ろうか」
そう言ってラティオスの横を通り、休息所の方へ歩き出そうとしたの手を、不意にラティオスが引く。手を引かれたは足を止めて、ラティオスへと振り返った。
「どうしたの?」
が首を傾げるとラティオスは一度手を離し、その手での頬に触れた。ラティオスの手のひらの冷たさには思わず小さく悲鳴を上げる。それから眩しそうに細められた赤い瞳を見上げた。
ラティオスが口を開く。
ぼくが今、何を考えているか分かる?
はらはらと舞う雪の中、ラティオスの鳴き声を聞いたはラティオスが何かを尋ねたというのが分かったのか、なあに?と首を傾げた。
美しいラティオスの赤い瞳。その瞳は優しい光を宿して真っ直ぐにのことを映している。
ラティオスは一度雪の降る空を見上げると、ほう、と辺りの景色と同じように白い息を吐いた。白く色付いた吐息は、寒空の下に溶ける。それからそっと、の体を抱き締めた。
「……ラティオス」
がラティオスの名を呼ぶと、ラティオスは体を離した。そしてゆっくりと顔を上げ、愛おしそうにくるると鳴く。
ぼくは君を、愛してる。
静まり返った世界で、には確かにそのラティオスの言葉がはっきりと聞こえていた。は驚いた表情を浮かべたが、それもほんの一瞬のことだ。ぱっと顔を綻ばせると、言葉を紡ぐ。
「……ポケモンの言葉はやっぱり分からないけれど、どうしてだろう。今、ラティオスが言ってくれた言葉は、不思議と分かったよ」
ラティオスが嬉しそうに喉を鳴らす。そんなラティオスの手を取ると、もふっと笑った。それからラティオスの眼をまっすぐに見つめて、こう言ったのだ。
私も君を、愛してる。
ああ君をあいしてる
ラティオス/9位
ラティオス/9位