まだクズモーだった頃に群れからはぐれて海流に流された私は、仲間であるクズモーやドラミドロが一匹も見当たらない海域へと流れ着いてしまった。生まれたばかりで帰るべき方向も場所も分からず、流れ着いた場所でひっそりと暮らすようになってどれだけの時間が過ぎただろう。長い年月を重ねる内に私の体はクズモーからドラミドロへと成長を遂げたが、姿かたちが変わってもひっそりと暮らしているのは変わらずだった。

 幼い頃の朧気な記憶を辿ってみれば、私が生まれた海は薄暗く少し冷たい海だったような気がするが、私が流れ着き、そのまま暮らしている海は暖かな海だった。回りに暮らすポケモン達も、ケイコウオやチョンチー、マンタインにサニーゴと鮮やかなポケモン達ばかりだ。

 そんなポケモン達の中で、私はやや浮いた存在であった。元からこの海域には棲んでいないポケモンというのは勿論のこと、ドラミドロという種族は極めて縄張り意識が強いポケモンで、何よりその体には船体すらも腐らせてしまうような毒を宿しているからだ。
 私自身には縄張り意識など無いに等しく、また、この毒で誰かを殺めてしまおうという考えは微塵も無いのだが、それを知らないこの辺りに暮らすポケモン達は私の姿を見るとそそくさと逃げていく。その何とも言えない居心地の悪さにも、とうの昔に慣れてしまっていた。

 何度か故郷を探す旅に出てみようかとも思ったが、縄張り意識の強い種族のことだ。今更よそで育った私が仮に故郷に帰ることが出来たとしても、そこに上手く適応できるとは到底思えず、結局故郷を探すことは諦めていた。

 私の居場所はどこにあるのだろう。近頃はそればかりを考えるようになっていた。そんなある日のことだ。

 ニンゲンがいた!そうケイコウオの群れが騒いで泳ぎ去るのを、棲み処にしている岩場でまどろんでいる時に耳にした。それから泳ぎ去ったケイコウオの群れを急いで追いかけると、ニンゲンを見たと言ったな、と声を掛ける。今までに一度も自ら他のポケモン達に話し掛けたりなどしたことが無かった私に突然話し掛けられたからか、ケイコウオ達は揃って驚いたように眼を見開いた。僅かにその体が震えている。

「……どこでニンゲンとやらを見たんだ」
「あっ、あの、ここから南に少し行った所の、桟橋だよ」 

 ニンゲンという生き物のことは、海に棲むポケモン達が時折話に出すことがあるので何となく知っていた。それでも生まれてから一度もニンゲンという生き物を見たことが無かった私は、一度ニンゲンという生き物を見てみたかったのだ。そして私の問いに一匹のケイコウオが震える声で答え、それから慌てて逃げていくと他のケイコウオも慌てた様子で散り散りになって姿を消した。それを見送ってから、私はケイコウオから聞き出した南の桟橋へと向かう。

 いつもは海の底で過ごしているので、海面へと近付いたのは随分と久しぶりのことだった。海面に白く輝いて揺れる、久方振りに見た太陽の陽射しがひどく眩しい。私はケイコウオ達が口にしていた桟橋を海の下から見つけると、桟橋から少し離れた場所にある岩の陰からそっと顔を出した。

 そうして岩の陰から覗いた桟橋には、見慣れない生き物が座っていた。私には無い二本の足と、二本の手。以前ニンゲンについて、話好きのサニーゴやラブカスが話していた通りの姿かたちをしている。私達のように海に暮らすものが歩けない陸を、ニンゲンとやらはあの足で歩くことができるのだ。

 ニンゲンは桟橋に座り、隣で羽休めをしているペリッパーやキャモメと何やら話しているようだった。時々楽しそうに笑い声を響かせている。私は初めて見たニンゲンの姿を、食い入るように見つめた。あれが、ニンゲン。聞いた話によれば、ニンゲンの中には悪いニンゲンと良いニンゲンがいるという。あのニンゲンはどちらなのだろう。キャモメ達が警戒する素振りも見せないことから、どうやら悪いニンゲンには見えないが……。

 もう少し近寄って様子を伺ってみようと考えた私は岩陰から水中に身を潜めると、桟橋の真下から水面へと静かに顔を出した。ここまで近寄るとニンゲンの話し声がはっきりと聞こえる。声から察するに、どうやらニンゲンは女のようだ。

「……それでね、今、新しい木の実を育てているんだ。今度実をつけたら持ってくるから、楽しみにしてて!」

 潮騒の中でもよく聞こえる声だった。そしてニンゲンの言葉に嬉しそうにくうくうとキャモメ達が鳴く。

「さ、そろそろ帰らなきゃ。また遊びに来るね」

 名残惜しそうなキャモメ達に、ニンゲンが小さく笑ったのが分かった。それからまたね、と声がすると、桟橋の上をニンゲンが歩き出したのか、こつこつと足音が響いて遠ざかっていく。私は暫くの間、桟橋の下でぼうっとしていた。


○○○



 初めてニンゲンという生き物を見たあの日から、私は毎日桟橋の様子を見に行った。何故かは分からないが、あのニンゲンに興味を持ったのだ。毎日桟橋の下でひっそりと海面から顔を出しては、ひたすらにあのニンゲンが現れるのを待つ。ところがニンゲンは中々現れず、次にその姿を見たのは凡そ一週間後のことだった。

 その日も桟橋の下でじっとしていた私は、遠くからこつこつと足音が響いていることに気がつくと息を潜めた。桟橋の一番端へとやってきたニンゲンは、どうやら桟橋に腰を下ろしたようだ。二本の何も身につけていない足が、穏やかな海面に浸されている。

「みんな、元気にしてた?」

 ニンゲンが声を掛けたのは、やはりキャモメ達のようだ。その証拠にいつもより少し大きな声でキャモメやペリッパー達が鳴いている。

「この前話した木の実がやっと実を付けたの。だから今日は持ってきたんだ」

 その言葉の後に、がさがさと何かを漁る音が聞こえた。そして「はい、どうぞ」とニンゲンの声がしたかと思うと、キャモメ達の鳴き声がぴたりと止んだ。恐らく今、キャモメ達はニンゲンが持ってきたという木の実を啄ばんでいるのだろう。

 私が桟橋の上で繰り広げられている光景を想像していると、不意にどぽん、と何かが海に落ちる音が聞こえた。見ると一つの木の実がぷかぷかと浮かんでいる。どうやらニンゲンか、キャモメ達の誰かが落としてしまったようだ。落ちた木の実は波に揺られて、桟橋の下にいる私の元へと流れ着く。それをまじまじと見つめていた私は、思わず木の実を口にした。
 海の中では口にしたことがないような、甘酸っぱい味。私はすぐにその味が気に入って、夢中で木の実を齧った。

 それから暫くすると、ニンゲンはまたこの前のようにまた遊びに来るね、と口にして立ち上がったようだった。桟橋の下から見えていた二本の足が引っ込み、そしてこつこつと足音が遠ざかっていく。

 どうやらニンゲンは週に一日、二日程この桟橋へとやってくるようで、私は人間が時々口にする、海の中では知ることの出来ない陸の世界の話をこっそりと聞くのが楽しみになっていた。そうして初めてニンゲンの姿を見るようになってから、随分と経った頃のことだ。

 その日は、数日前に嵐がやって来た影響で海が僅かに荒れていた。海面を走る風も少し強い。いつもは穏やかな海も、嵐が過ぎ去ったとは言えど僅かに荒れている。それでもニンゲンは桟橋へやって来ると、キャモメ達に声を掛けた。

「この前の嵐、凄かったね。みんなは大丈夫だった?」

 どうやらニンゲンは海のポケモン達を心配して訪れたようだった。そしてキャモメ達の声色から何となく大丈夫だという意味を悟ったのか、ニンゲンが安心したように笑う。

「そう、なら良かった。海の中のポケモン達も大丈夫だったのかな?」

 その言葉に、私は嵐が訪れた日のことを思い出す。嵐がやって来た日、海は海上も海中も大荒れだった。海流の流れはいつもよりずっと早く、いつもは楽しそうにゆったりと泳ぐチョンチーやラブカス達がきゃあきゃあと悲鳴を上げていたっけ。

 そんなことを考えていると、不意に桟橋から少し離れた所に何かが落ちたのが見えた。殆ど音も無く落ちたのは、どうやら帽子のようだ。キャモメ達がそれを拾おうとするが、いつもより荒れている波はキャモメ達を弄ぶかのように帽子をあちこちへと揺さぶって、どんどん桟橋から離れた方へと運んでいく。

「あっ!」

 そしてその後すぐに聞こえたのは、ぴゅうという強く風が吹いた音と、ニンゲンの短い悲鳴だった。派手な水音が響くと同時に、大きな水飛沫が上がる。ニンゲンが桟橋から海に落ちたのだ。

 ニンゲンが海に落ちたのを眼にすると同時に、弾かれたように私は海中に潜っていた。普段の穏やかな海からは想像もつかない程、桟橋から僅かに離れるとぐっと水深が深くなる。その上浜辺から離れようとする潮の流れもあるし、何より海はいつもより少し荒れているのだ。きっと一人では陸地に戻れないだろう。

 私はあれこれと考えながら、ニンゲンの姿を探す。すると、桟橋から離れた場所で口から空気の泡を吐き出しながら沈むニンゲンが見えた。慌てて近寄ると、私の体に潜む毒の棘が刺さってしまわないように気をつけながらニンゲンの体を抱き上げ、そして急いで海面を目指す。

 海面から勢いよく顔を出すとニンゲンが僅かに咳き込んだが、どうやら気を失っているようだった。私は海面から顔を出したまま、ニンゲンの海水で冷えた体を抱いて岸に向かって泳ぐ。桟橋の辺りで大騒ぎをしていたキャモメ達は、私がニンゲンを抱いて泳いでいるのを見ると安心した様子で集まってきた。

 そして砂浜に辿り着いた私がそっと砂の上にニンゲンを寝かせると、帽子を何とか拾い上げたのであろう一羽のキャモメが、その隣にそれを置いた。

 ニンゲンは不意にまた咳き込むと、飲み込んでしまっていたであろう海水を吐き出した。それから何度か咳き込むが、それでもぐったりとした様子で目を閉じている。

 私はニンゲンの様子を見守りながら、ニンゲンの姿をまじまじと眺めていた。今まで桟橋近くの岩陰か、桟橋の下からしかその様子を伺うことはできなかったので、これ程傍でニンゲンの姿を眼にするのは初めてだったのだ。

 軈てキャモメ達が優しく嘴でニンゲンの頭をつつくと、ニンゲンが小さくううん、と声を漏らす。どうやらもう大丈夫そうだと判断した私は、そっと浜辺を離れると海に潜って顔だけを覗かせた。

「う……、げほっ、うぐ……あれ……」

 ニンゲンが目を覚ますと、わっとキャモメ達が声を上げた。ニンゲンがほっとしたような顔で笑ったのが僅かに見える。

「私……いきなり強い風が吹いて……海に落ちて……それで……」

 ニンゲンは海に落ちた時のことを思い出したのか、顔を顰めた。それからゆっくりと上体を起こすと、辺りを見回す。

「……あなた達が、助けてくれたの?」

 キャモメ達は顔を見合わせると揃って首を振る。それからいつの間にか海中へと姿を消してしまった私を探すようにきょろきょろと首を動かしたので、私はそっとまた海に潜った。



 私はあのニンゲンに姿を見られることが恐ろしかったのだ。
 船体を腐らす程の毒を持ち合わせていることで、ニンゲン達からはドラミドロが棲む海域に迷い込んだ船は二度と生きて戻れないと恐れられていることを知っていた。だからきっと、あのニンゲンも「ドラミドロ」である私の姿を眼にしたら怯えてしまうだろう。そうしたらもう二度とこの場所へと訪れなくなるかもしれないと、そう思ったのだ。

 ニンゲンがこの場所を訪れなくなって、あの姿を見ることが出来なくなってしまったら。あの笑い声を聞くことができなくなったら。
 それらを寂しいと感じてしまう程に、海に棲むものが陸の世界を憧れるように、いつの間にか私はあのニンゲンに惹かれていたのだ。

○○○


 それからもニンゲンは、桟橋をよく訪れた。以前よりもやって来る頻度が上がったのは、どうやら海に落ちた時に助けてくれたポケモンのことを探しているからのようだ。それでも私はやはりあのニンゲンの前には決して姿を見せなかった。

 ニンゲンは訪れる度に、キャモメ達に「私を助けてくれたポケモンのことを見かけた?」と尋ねたが、私が桟橋の下にいることを知らないキャモメ達は揃って首を振る。それを見ると、ニンゲンはいつも残念そうに溜め息を吐いた。

 それがあまりにも心苦しくて、ある日、遂に私は恐る恐る桟橋の少し先の海面に顔を覗かせた。

 途端にニンゲンはここらで見慣れない私に気がついて、目を丸くしたかと思うとあっと声を上げる。キャモメ達も私に気がつくと、あのポケモンが君を助けたんだ、とニンゲンに向かって大きな声で騒いだ。

「ドラミドロ……」

 ニンゲンが私に向かって口を開く。私はただそれを黙って見ていた。あのニンゲンは私がドラミドロというポケモンであることを知っているようだ。

「あなたが私をあの日、助けてくれたの?」

 ニンゲンの声を耳にして、少しの間を置いてから私は小さく頷いた。周りがほんの少し波立つ。自分のことを助けたポケモンがドラミドロであると知った今、あのニンゲンは一体どうするのだろうと私は少し恐怖を抱きながら見つめていた。

 するとニンゲンは、意外なことに優しい顔で笑った。

「私は、ずっとあなたにお礼を伝えたかった」

 まさかそんなことを言われるとは思わなかった私が固まっていると、ニンゲンは私の方へと手を差し出した。恐る恐る、私はニンゲンの元へと泳ぐ。ニンゲンは逃げもせず、私のことを静かに待っていた。

「あの時あなたがいなかったら……本当に、本当に、ありがとう」

 桟橋の端に座るニンゲンの目の前に私が辿り着くと、ニンゲンは恐れる素振りも見せずにその手でそっと私の額に触れる。ニンゲンの体温は私の体温に比べるとずっと高く、私はまるで火傷でもしそうだなんて考えた。

「私ね、ずっと助けてくれた誰かにお礼をしたいと思っていたの。あなたに私は何をしてあげられるかな?」

 唐突にそんなことを尋ねられて、私は狼狽してしまった。まさか礼を伝えられるだけでは無くて、お礼をしたいのだと言われるとは微塵も思っていなかったからだ。

「……もしかして、困らせちゃった?」

 私の様子から困惑していることを察したのか、ニンゲンも困ったように笑った。釣られて私まで笑ってしまう。この海で、こうして笑ったのは初めてのことだった。

 彼女は私にお礼にしてほしいことが何か決まったら教えてほしいと告げたので、数日後に私は悩みに悩んだ末に海の底で見つけた空のモンスターボールを差し出した。
 私は願ったのだ。彼女の元で暮らすことを、彼女の傍に私の居場所を作ってもらうことを。

 空のモンスターボールを差し出された彼女は驚いた表情を浮かべたが、すぐにあの優しい顔で笑うと、私の額にこつんとモンスターボールを触れさせる。そして大人しくモンスターボールの中に収まった私に向けて声を掛けた。

「私は。よろしくね、ドラミドロ」

 長いこと彼女を見ていたというのに、この時になって漸く私はという名を知ったのである。

 それから私とは、あの海を離れて旅に出た。海の中の世界しか知らなかった私に、彼女は陸の世界を見せてくれたのだ。



「……ドラミドロ、ドラミドロ」

 故郷の海でもない、あの私とが出逢った海とも違う海。その波に揺られていると、靴を脱いで裸足で浅瀬に立つが私の名を呼んだ。

「見て、太陽がもうすぐ沈むよ。綺麗だね」

 の言葉に、地平線へと眼を向けた。海と空の境界線、真っ赤な空の下で太陽が少しずつ沈んでいく。私がへと振り返って頷くと、彼女は眩しそうに目を細めた。

「さ、そろそろポケモンセンターに戻ろうか」

 私が頷いての元へと近寄ると、彼女は凪いだ海のように穏やかな瞳で私を見つめていた。私が首を垂れてと目線を合わせ、それから首を傾げると、彼女が笑って私の両の頬に両手を添える。

 そして、ゆっくりとの額と私の額が触れた。

 が擽ったそうに笑い声を上げたので、私も喉を鳴らす。今でこそ慣れてしまったが、やっぱり彼女の体温は私の体温に比べるとずっと高い。

 それでも、私の名を呼ぶ声が、見つめる瞳が、触れる手が、火傷でもしそうだなんて思えるこの熱さえも、すべてがたまらなく愛しくて仕方がなかった。


その熱がたまらなく愛しい
ドラミドロ/10位



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