ソファに腰を下ろしたわたしのとなりでは鼻をすすっている。彼女の傍に置かれたティッシュの箱はとうに空になっていた。
どうしたものかと思って周囲を見回すと、きちんと畳まれた洗濯物が目に入った。こうなる前のが畳んだものだ。立ち上がってタオルを一枚掴み、そこらの砂浜で寝転がっているヤドンのような淡いピンクのそれを差し出すと、鼻声の「ありがとう」が耳に届いた。がタオルでぐしぐしと目をこする。
そう何度もこすると目が赤くなってしまわないかしら。このあとのの目のコンディションが心配になってしまって、彼女の手を取った。
目元に残っていた涙を指先でやさしく拭ってやると、くすぐったそうに身を捩ったはタオルをくしゃっと握りしめ、涙の原因であるテレビへ視線を戻した。
画面では騎士であるエルレイドと姫であるサーナイトが手を取り合っている。曰く、これは大人気の映画の再放送、というやつらしい。
「何度か見たことがあるから、展開も分かってはいるんだけど。やっぱり同じところで泣いちゃう」
そう言ったの目元に再び涙が滲んだ。
すっかり暗くなったし、そろそろ散歩へ行こうか。そんな話をしていたところで、偶然にもの好きな映画の再放送がやっていると分かったのが少し前のことだ。
途中から見始めたこともそうだけど、わたしはころころと変わるの表情をひとつも見逃すまいと彼女を観察するのに忙しかったので、物語の内容は途切れ途切れにしか分からない。
だけど、画面に映るエルレイドとサーナイトのふたりが様々な困難を乗り越えた末に幸せな結末を迎えたことは分かった。
この一時間にも満たない時間で散々涙を流したは、最後にもう一度タオルで涙を拭ったあと、「あー……本当によかった……」と物語の余韻に浸りながらも立ち上がった。相変わらずの鼻声に、つい笑ってしまう。
「待たせちゃってごめんね。予定よりも遅くなったけど、行こっか」
という人間と暮らしているウルトラビーストは、この世界にとって脅威ではない。
そう、国際警察とアローラ地方チャンピオンのお墨付きをもらったわたしだけど、ふたりで散歩に行くのはやっぱり夜になってからだ。
国際警察とチャンピオンがそう判断したからといって、この世界で生きる人間やポケモンたちもそう思うかは別の話なのだ。
わたし自身はわたしがどう思われようとどうでもいいけれど、一緒にいるまでもが好奇の目に晒されるのは耐え難い。きっとそれはも同じで、自分のことはどうでもよくって、わたしがいろめがねで見られるのは嫌なのだろう。
だから、わたしたちはお互いに何を言うでもなく、今まで通りひっそりと暮らしている。
外へ出ると、途端にやわらかな月明かりが降ってくる。
暗いから危ないし、わたしが手を引いてあげないと。心の中でひとりそんな言い訳をしながら手を差し出すと、は「ふふ」と笑いながらわたしの手を取った。
何がおかしいの。わたしが首を傾げると、はやわく手を握り返しながら微笑んだ。
「私も手を繋ぎたかったから。フェローチェもそうなのかなって思ったら嬉しくなっちゃった」
言い訳があっけなく無に帰してしまい、思わずわたしはそっぽを向いた。
わたしの考えなど、にはおみとおしだったのだ。ことばがなくともわたしの想いがちゃんと伝わっているのは、以心伝心しているようで喜ばしいことなのだけれども、それでも何だか少しだけ悔しい。だから、の手を少しだけ強く握り返す。
そっぽを向いたことも、手を強く握り返したことも、どちらもそれがわたしの照れ隠しだと知っているは、また同じように笑い声を漏らした。
太陽が地平線の彼方へ沈む前は、ケララッパたちの賑やかな合唱が響く町外れの砂浜。そこを通り過ぎ、ゆるやかな坂道を歩いて辿り着いたのはメレメレの花園だ。
昼間なら花と一緒になって踊っているであろうチュリネや、花と同じ黄色いすがたのオドリドリの姿はひとつも見えない。
前に来た時と変わらない、月明かりが照らす満開の花畑。その中央でふたり並び立つと、はわたしの手を離してぐうっと伸びをした。
「ポケモンたちがたくさんいて賑やかな昼間もいいけれど、やっぱりフェローチェとふたりきりって感じがする夜の方が落ち着くし、好きだなあ」
そう言って、は静かに黄色の絨毯の上を歩き出した。できるだけ花を踏んでしまわないように気を付けているのか、その歩みは随分とゆっくりだ。彼女が口にした言葉を嬉しく思いながら、わたしも同じ歩幅で追いかける。
潮の香りを乗せた夜風に花がそよいで、足やヴェールの縁をなぞっていく。少しくすぐったいけれど、不快ではない。この何の変哲もない花にさえも怯えていた頃が何だか懐かしくて、自然と口元が綻んだ。
そうしてゆったりとした速度で歩いていると、不意にが足を止めて屈みこんだ。一体どうしたのかしら。そう思って彼女のとなりへ追いつくと、その手には一輪の花があった。
「……一輪だけもらっちゃった」
が私によく見えるよう花を持ち上げる。月明かりに縁取られた一輪の花は、が持っているからか、それだけが特別なものに見えた。
「ちょっとしゃがんでもらってもいい?」
いいけれど、どうしたの。ひとつ頷いて、言われた通りに膝を折ってしゃがむ。
いつもはわたしがを見下ろしているからか、逆にこうして見下ろされるのは新鮮だ。いつもと違うふたりの目線の高さにむずがゆさを感じながらもじっとしていると、はわたしの片方の触覚へ、その花をくるりと巻き付けた。思いがけない贈り物に、胸がほんのりとあたたまる。
わたしもへ花を贈ろうかしら。そう考えてしゃがんだまま足元の花を吟味していると、不意に名前を呼ばれた。なあに? 顔を上げれば屈んだの両手がするりと伸びてきて、わたしの頬をやわく包んだ。
いつだって変わらない、まっすぐな、それでいてやさしい光を湛えた彼女の眼差しが向けられる。のものか、メレメレの花園の香りか分からないあまいかおりに息を呑んだ。瞬きを繰り返している間に、コツンと額が触れる。
「フェローチェ」
が静かに息を吐く。
「あなたがしあわせでありますように」
――それは、先ほど見ていた映画の中で耳にした言葉だった。
確か、花が咲き乱れる思い出の裏庭で、姫であるサーナイトが騎士であるエルレイドへかけた言葉だ。が涙を流したいくつかのポイントのうちのひとつでもある。特にこのシーンが好きで。そうは言っていたっけ。
そういえば、あのエルレイドもサーナイトから花冠を贈られていた。断片的に覚えている映画の内容を思い出していると、触れていた額はあっさりと離れていく。かと思えば、は花のように顔を綻ばせた。その表情に、思わず見惚れてしまう。
そして、わたしの頬にの唇がそっと触れた。
え、え。今の、今のは一体なに? そんなシーン、あの映画にはなかった、ような。こおり状態のように固まったわたしを他所に、はにかんだはくるりと背を向けて黄色い花の絨毯を歩き出してしまった。察するに、何だか照れくさくなってしまったのだろう。
わたしは慌てて立ち上がると、花を散らしてしまわないよう十分に気を払い、けれど大股でを追いかけた。
そうすれば愛しい後ろすがたにはあっという間に追いついて、わたしはそのからだを腕の中に閉じ込めることができた。
「わっ」
驚いた声を上げたが、一呼吸置いてわたしの腕の中で振り返る。やっぱり照れくさかったようで、その頬はほんのりと赤くなっていた。
ふいうちだなんてずるい。それに、置いていってしまうのもひどいわ。じとりとした目を向けると、はふにゃりと気の抜けるような顔で「ごめんごめん」と笑った。彼女に甘いわたしはたったそれだけで、眉間に寄せたしわをほどいてしまう。
「……私ね。フェローチェのおかげで毎日とっても幸せなの。だから、フェローチェもそうだったら嬉しいな」
わたしの背にそろりと手を回し、薄いヴェールを撫でながらが口にした言葉。それを聞いたわたしは思わず目をまるくして、けれどすぐさま小さく息を吐いた。
何故なら、わたしはとうに幸せだったのだ。
この世界に落ちた時は、確かに不幸だった。未知のもので溢れるこの世界はすべてが穢れていると思っていたし、何よりわたしは、わたしという存在は、この世界にあってはいけなかったから。
でも。に出逢えたことで、わたしは不幸じゃなくなった。
と過ごすうちに、この世界には美しいものがいくつもあることを知った。ここにいていいのだと、わたしとこの世界へ言い聞かせるように、いつだってあなたがその唇からあたたかな光を吹き込んで名前を呼んでくれるから。いつの間にかわたしは、この世界にいてはいけない不幸な存在ではなくなったのだ。
――ねぇ、。
彼女の耳元で、最愛の名前を呼ぶ。そうすると、返ってきたのはわたしの願いなら何だって聞き入れてくれそうな、穏やかな声色の「なあに?」だった。
どうしてあなたはこんなにも、わたしに幸福を与えるのが上手なの。そんなことを考えながら、わたしよりも随分と脆いからだを抱きしめて、彼女の名前をもう一度呼んだ。
あなたがしあわせでありますように。
がかけてくれたまじないは、決してとけることがないだろう。
だってわたしはがとなりにいるだけで、この世界でこの先もずっと「幸せだ」と胸を張って生きていけるのだから。
決してとけないまじないを(20240827)