深い森にはどんな危険が潜んでいるか分からない。例えばアリアドスが巣を張って待ち構えていたりだとか、草むらの陰でウツボットが大きな口を開けていたりだとか、危険だらけなのである。今だってそうだ。

 野生のコノハナ達が木の上からずっと眼を光らせていることには気付いていた。悪戯をしに来たのか、私の隣を人間一人分の距離を空けて歩くの持つ鞄の中の食料目当てなのか目的は定かではないが、こちらの様子を伺うその視線は鋭い。

 もコノハナ達には気付いていて、私に目配せをすると頷く。まさに、その瞬間だった。一匹のコノハナが彼女目掛けて飛び掛かってきたのだ。それと同時に、私は力強く踏み込んでそのコノハナの体にバレットパンチを叩き込む。
 みし、と軋む音がして飛び掛かってきたコノハナは吹き飛んだが、ひらりと空中で身を翻すと軽やかに地面に降り立つ。すると、木の上から次々とコノハナ達が姿を現した。

「……ハッサム、お願いね」

 を庇うように前に出ると、後ろから彼女がそう言った。私は振り返らずに頷くと、コノハナ達を一見する。コノハナ達はじりじりと私達との間合いを取っていたが、やがて一斉にはっぱカッターを繰り出した。

「シザークロス!」

 コノハナ達の攻撃と同時にが指示を出した。勢いよく前に飛び出した私は、辺りの草を散らしながら飛ぶ葉の全てを、眼にも止まらぬ速さで切り刻む。
 数秒後に私が足を止めると、その周りにはらはらと木の葉の残骸が散った。それを見て、コノハナ達が眼を丸くする。まさか一枚も私に傷をつけることが出来ないとは思わなかったのだろう。

 コノハナ達は顔を見合わせると、後退る。それから一匹のコノハナが足元の大きな石を拾い上げると、それを私目掛けて投げつけた。私はその場から動くこともせず、その石を自身の武器である鋏で掴んでみせる。そして少し力を加えると、大きな石は派手な音を立てて粉々になった。

 ぱらぱらと舞う砂塵を見て、コノハナ達の顔が途端に青ざめる。そして、慌ただしく姿を消した。


 コノハナ達の後ろ姿を見送ったは、ほっと息を吐く。それからありがとうと口にするとこちらへと駆け寄ってきて、その手で私に触れようとした。
 思わず私はびくりと体を強張らせる。それを見たは、しまった、とでも言うような表情を浮かべると慌てて伸ばしかけた手を引っ込めた。

 それを見て私も心の中でしまった、そう思ったが、時既に遅し。何となく気まずい空気になったのを感じずにはいられなかった。

「……えーっと、それじゃあ、行こうか」

 気まずい空気を誤魔化すように、はそう笑うと歩き出した。その半歩後ろを、私も歩き出す。彼女が前を向く寸前、少し寂しそうな顔をしていたことに、私は気付かなかった。


 が私に触れようとすると体が強張るのは、この体がまだ鋼の体になる前の、昔からの癖のようなものだった。彼女に触れられたくない訳ではない。むしろ、その逆だ。彼女が私の頭を撫でようとしてくれるのも、抱きしめようとしてくれるのもとても嬉しいことなのに。

 私の両腕は今も昔も最大の武器である。昔は鎌であり、今は鋼鉄を含んだ、自慢の鋏。それはどんなものでも粉々にしてしまうから、に触れられるとなると少し恐ろしい。自分から触れるなんて、もっての外だ。間違って少しでもに傷をつけてしまったら。そんなことを考えると、戦いの時の勇ましい私はどこへやら、臆病な自分が顔を出すのだ。
 ストライクの時もそうだった。鋭い鎌で少しでも彼女に傷を付けてしまったら。そう考えると私は恐くなって、に触れられそうになると体が強張るようになってしまったのだ。

 それから時が過ぎ、私は進化を遂げて今のこの鋼の体を手にいれた。いくつもの経験を重ねて戦いの最中にどういう動きをすればいいのかは分かるようになっても、彼女への触れ方は分からないままだった。


「わっ、雨だ」

 の声に、考え事に夢中になっていた意識が引き戻される。彼女の言葉通り、木々の葉の隙間を縫うように雨粒がぱらぱらと落ちてきた。思わず空を見上げると、葉で覆われた天井から見える隙間はどことなく薄暗い。

「少し雨宿りしよう」

 その提案に頷くと、私とは走り出した。


 走って辿り着いたのは、樹齢が千年を越えていそうなとても大きな木の根元の空洞だった。この深い森には、このような大きな木がそこかしこに生えている。
 そこに入り込むと、は途中で見つけた大きな葉を敷いて膝を抱えて座った。私も彼女との間に一人分のスペースを空けて腰を下ろす。

 しとしとと降っていた雨は、少しずつ勢いを増していった。雨のせいで森の中が白く色褪せて見える。その様子を眺めていると、不意にが口を開いた。

「ねえ」

 私が眼を向けると、はじっとこちらを見ていた。一体どうしたのかと首を傾げると、彼女は少し困ったような表情を浮かべた。何か言いたいことがあるのに言いにくい。そんな顔をしている。そのままが言葉を口にするのを待っていると、彼女はゆっくりと口を開いた。

「ハッサム、正直に答えてね」

 唐突にそんなことを言われ、私は思わず首を傾げたが、すぐに頷いた。するとはそのまま言葉を続けた。

「……ハッサムは、私と一緒にいるの、嫌?」

 思いもよらなかった質問に、私は眼を瞬かせる。それから勢いよく首を横に振った。が安心したような顔で小さく笑う。

「じゃあ、私と一緒にいて楽しいって思える?」

 直ぐ様今度は縦に首を振る。するとは、そう、と呟くように言うと、抱えていた膝に顔を埋めた。
 一体どうしてしまったんだろう、そう思って彼女を見つめていると、ややあって顔を上げたと視線が交わった。その顔がどこか泣きそうに見えて、ぎょっとする。するとそれに気がついた彼女が、ぽつりぽつりと話し始めた。

「ハッサムは、ストライクの頃から優しい子だったから」

 自分より小さなポケモンの面倒もよく見てくれていたし、困ったことがあれば助けてくれた。一緒に旅に出ようって言った時も頷いてくれた。でも、いつだって一定の距離があって、触れ合おうとすると体を強張らせて、微かに怯えたような顔をするから。本当はどこかであなたを傷付けるようなこと、嫌われるようなことをしてしまったんじゃないか、それでも優しいからずっと我慢してくれているんじゃないかって気にしてた。

 そこまで話して、は違うなら、いいの。とまた笑った。


 それを見て私は泣きたくなった。一定の距離を保つのはを傷付けないようにするためで、怯えた顔をしてしまうのは「彼女を傷付けてしまうかもしれない自分」に怯えていたからだったのに、それらの結果すべてがの心に傷を付けていたのだ。
 どうして今まで気が付かなかったのだろうか。こういう時に、そういう訳じゃないのだと言葉を喋ることが出来たらいいのに。そう考えていると、私の顔を見たが今度はぎょっとしたようだった。

「ハッサム、どうしたの?」

 が、私との間に合った距離を少し縮めて顔を覗き込んだ。

「……何か言いたいことがあるなら、教えて」

 私は両腕に視線を落とす。も私の視線を追って、鋏を見つめた。それから私は、鋏から彼女の顔へと視線を移す。何度か鋏と顔を交互に見つめる私に、は何かを考える素振りを見せて、それから「ああ」と声を漏らした。

 の手が、そろりと私の片方の鋏に触れる。びくりと体はいつものように強張ったが、いつもはそこで手を引っ込める彼女は引かなかった。目玉模様のついた、真っ赤な鋏から伝わるの手のひらのは熱い。

「……もしかして、触れたら私が怪我をすると思っていたの?」

 の眉間に皺が寄るのを見ながら、そっと頷く。すると彼女は息を吐いて笑った。

「やっぱり、あなたは優しい子だね。でも、大丈夫だよ。これくらいで、怪我なんてしないよ」

 本当に?そう尋ねたくても言葉に出来ないのがもどかしくて、私はたまらずの体を恐る恐る引き寄せる。彼女の体は傷一つ付くことなく、すっぽりと私の腕の中に収まった。

「ね、平気でしょう?」

 が今までで一番明るい顔で笑う。


 彼女に触れること。二人の間に生じてしまっていた見えない溝を埋めること。彼女の心の寂しさを拭い去ること。それは思っていたよりもずっと、簡単なことだった。

 こんな簡単なことでずっと悩んでいた自分のことが馬鹿らしく思えて、私は思わず笑ってしまう。それから腕の中で聞こえるの声の心地好さに、今度は嬉しくて泣きたくなった。


それはとても簡単なこと/20160804
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