今、部屋にはランクルスの他にがいる。しかしの耳には憂いを帯びた溜息は届かなかったらしい。その証拠にが何か反応を示すことはなく、溜息はひっそりと空しく部屋の空気に溶けていっただけだった。
その原因は座椅子にゆったりと座るの手の中にあった。つい先日、二人が買い物に出かけた際に何となく立ち寄った本屋でが購入した一冊の本。はここの所ずっと、それこそ暇さえあれば本を開くくらいにその空想の物語に夢中になっているのである。
ランクルスは人間の使う文字を読めないため、何がそこまでを夢中にさせるのかを理解することは全くできない。
ランクルスにとってはそれがひどくつまらないことで、それと同時にいらいらとさせるのだ。が構ってくれなくて、面白い訳がないのである。
何よりが自分の理解できない物事に一人で夢中になっているのが嫌だった。
の視線を独り占めしている本をランクルスが忌々し気に睨んでも、はその視線にも気が付かなかった。それ所か空想の世界は盛り上がりを見せているようで、は微かに口元に弧を描いている。
本の残りのページ数を見るに、が読み終えるまではまだまだ時間がかかるだろう。
あの本がこの家にやって来るまでは、の存在を独り占めしていたのは自分だったはずなのに。そう思うともう一度溜息を吐かずにはいられない。しかしやはりのランクルスに対する反応はなかった。
そんなの様子をじっと見ていたランクルスは、窓の傍に座るのをやめてふわりと浮かび上がる。そしてそのままふわふわと宙を漂うように移動すると、の足先の上辺りに留まった。
まだ、の視線は本に釘付けだ。
ランクルスは右手を伸ばすと、の足先をつついた。突然のぷにぷにとした感触に驚いたのか、びくりと体を揺らしたが、漸くランクルスを目に捉える。
「びっくりした……。なあに、どうしたの?おやつでも食べる?」
が一度本に栞を挟んで閉じ、それから壁に掛けられた時計を見遣ると、時計はもうすぐ三時になることを示していた。
時計から再びランクルスへと視線を向けたはどうする?と首を傾げる。するとランクルスは首を振った。別におやつが食べたい訳じゃないんだ、と。
「……そう?食べたくなったら言ってね。今日のおやつはポフレだよ」
そう言うとは再び本を開いてしまったので、ランクルスはがっかりしたような顔をした後にの周りをくるくる回った。
本ばっかり見ていないで、もっと構ってよ。というランクルスのそのアピールにはさすがにも気が付いたのか、本に視線は向けたままであるが口を開く。
「ちょっと待って。今、すっごくいいとこなの」
もうたくさん待ったよ、とランクルスが頬を膨らませて再びの周りを回る。それでもの視線や意識は未だランクルスへ向けられない。
「あと少しだって……」
のその言葉にランクルスは痺れを切らしたのか、やれやれと首を振るとの周りを回ることを止めた。そしての後ろに移動して両手を広げると、ぐっと指先に力を込める。
途端にランクルスの体がぼんやりと淡い光を放ったかと思うと、続いての手にある本が同じ光に包まれた。そして重力に逆らうようにふわりと浮かび上がる。
「えっ?え?」
突然自分の手から本が離れたことに驚いたが声を上げる。そして座椅子に座る自分よりも高い位置に浮かび上がった本を目で追ったは、そこで漸く自分の後ろでランクルスが「ねんりき」を使っていることに気が付いたようだった。
「ランクルス!もう、悪戯はしちゃだめ。本を返してくれる?」
困り顔でがそう言っても、ランクルスはぷいと顔を背けただけだった。それどころかランクルスが右手をすい、と動かすと、宙に浮いていた本はから大分離れたところにふわりと移動し、そして静かに床に落ちた。
「ランクルスってば――」
座椅子から立ち上がって口を開いたはランクルスを叱ろうとしたが、その言葉の続きを発することはできなかった。何故ならが言葉を続けるよりも早く、彼女の前に移動したランクルスがきつく抱きついてきたからだった。
眼をぎゅうと瞑り、ぐいぐいとゼリー状の壁越しに中の小さな体を寄せるランクルスの姿は何だか苦しそうに見える。それを見たは、はっとした表情を浮かべるとランクルスのゼリーのような体を優しく抱きしめ返した。
「……ごめんね」
ランクルスがゆっくりと眼を開き、顔を上げる。寂しかったよね、そう尋ねると、素直にランクルスは頷いた。そしてもう一度に強く抱きつく。
そんなランクルスの頭をは後ろに回した手で優しく撫ながら、ほんの少し考え込むような素振りを見せる。そしてランクルスに向かって尋ねた。
よかったら、一緒に散歩にでも行かない?
そのの提案に、ランクルスはぱっと顔を輝かせた。しかしちらりと自分がねんりきで遠くに移動させた本を見遣ったので、はふふ、と笑う。
「本を読むのは、暫くお休みにするよ」
それを聞いたランクルスは、どこか安心したように笑う。その顔から先程までの苦しそうな、寂しそうな影はもう消えていた。
「よし。そうと決まったらすぐに支度をしなきゃ」
ランクルスが抱きつくのをやめてから離れると、はテーブルの椅子に掛けていた上着を手に取った。そして二人揃って玄関へと向かう。
が靴を履いている間に先に外へと出たランクルスは、午後の心地好い日差しにふるりと体を震わせる。それから遅れて出てきたの手を、早く早くと急かすように引いたのだった。
いつだって君と見つめあっていたい/20151219
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