とある町の外れに佇む、小さなカフェ。そのカフェには小さいながらにテラスがある。そしてそのテラスの入り口から一番遠い隅の席には、客がいないにも関わらず一つのグラスが置かれていた。グラスの中にはポケモンでも美味しく飲めるミックスオレが並々と注がれており、丁寧にストローまで挿されている。


カフェの閉店後の夕方、テラス席を覗くことができる店内の窓付近の席で皿を片付けていたは、ちらりと外の様子を窺うと、あれ、と思った。いつの間にやらテラス席の隅の席に置かれていたグラスの中身が空になっていたからだ。重ねた皿を手に、店内にいるこの喫茶店のマスターの元へ向かうと、それを持ち直しながらは口を開いた。

「今日も来ていたみたいですね。気が付かなかったですけれど」

マスターはから皿を受け取ると、人当たりの良い笑顔で頷いた。

「一体いつ来たのかしら。まあ、とりあえず今日はイタズラをされる心配は無さそうね」
「そうですね」

は苦笑する。

そう、ここのカフェには一ヶ月程前から毎日、正体不明の何かが遊びに来ている。恐らくポケモンなのだが、未だにその姿を見た者は誰もいない。

その何かが初めて現れたのは、夕方のカフェの閉店後、が入口に近いテラス席の皿を片付けようとした時だ。
元・甘いクリームたっぷりのパンケーキが乗っていた皿には微量のクリームとチョコレートソースが残っていて、その皿にが手を伸ばした瞬間、突然寒気がの体を襲った。思わず辺りを見回しながらが自分の腕を擦る。すると不意に皿がことりと音を立てた。その音を聞いて慌てて皿に目を向けると、不思議なことに皿からは綺麗にクリームとチョコレートソースが消えていたのだ。

驚いたが唖然としていると、その間にエプロンのポケットに入っていたオーダー表とボールペンが音も無く浮かび上がる。そしての目の前で、オーダー表の「ミックスオレ」の欄に歪な丸が描かれたのだ。それからまた元のように、のエプロンのポケットへとオーダー表とボールペンは収まった。

「……え、えっ!?」

目を見開いたは店内へと駆け戻ると、他の従業員と共に店内の片付けをしていたマスターの元へと向かった。

さん。そんなに急いでどうしたの?お皿は?」

不思議そうな顔をするマスターに、はたった今目の前で起きた出来事を話した。それを聞いたマスターや他の従業達はは信じられない、というような顔をしたが、が歪な丸の描かれたオーダー表を見せると顔を見合せる。

「うーん。姿が見えないお客さんねえ」
「マスター。一応ミックスオレ、出します?」

マスターと他の従業員がそんな会話をすると、不意に傍のカウンターにあった花瓶がかたかたと揺れた。どうやら姿の見えない何かは待ちきれないらしい。それを見たマスターは慌ててミックスオレを用意すると、かたかたと揺れ続ける花瓶の隣にミックスオレの入ったグラスを置いた。途端に花瓶は静かになる。続けて戸棚から一本のストローがふわふわと勝手に飛び出てきて、グラスへと静かに収まった。

そしてマスターや達が蒼白い顔でそのグラスを見つめていると、グラスの中はあっという間に空になったのだった。


それから毎日のように、閉店後になると姿の見えない何かはやって来た。いつの間にかみんなの目を盗んではオーダー表を一つ持ち出して、「ミックスオレ」の欄に丸を付けてはそれを店内の席やカウンターにぽんと置いているのだ。気が付いてもらえなかったりすると、食器棚や花瓶、椅子がかたかたと揺れるのですぐに分かる。
達は最初は揃って姿の見えない何かに怯えていたのだが、繰り返される内にその存在にも慣れてしまった。そしてどうせ来るのが分かっているのなら、何かイタズラでもされる前に、予めミックスオレを用意して置いておこうとなったのだった。


そんなある日の閉店後のこと、はいつも通りにテラス席の片付けと掃除をしていた。隅の席には今日も当然のようにミックスオレの注がれたグラスが置いてある。中身が減っていない様子から、今日はまだ姿の見えない何かがやって来ていないのだと知ることができた。

「まったく。一体どんな姿をしているのかな」

グラスを横目に思わずそう呟くと、不意にケケケという笑い声が響いた。すっかり聞き慣れてしまったその声に、グラスの置かれた席の隣のテーブルを拭いていたの手が止まる。

「あら、いらっしゃい」

挨拶代わりなのか、笑い声がもう一度響いたかと思うとグラスの中のミックスオレが少しずつ減っていく。そうしてあっという間に空になると、ずず、との方へとグラスが近付いた。どうやらグラスを片付けて構わないようだ。はまた明日ね、と笑うと、グラスを持ち上げる。しかしグラスの表面が水滴で濡れていて、手からグラスが滑り落ちた。

咄嗟に手を伸ばし、あっとは声を上げたが、その後にグラスの割れる音が響くことは無かった。何故なら、の手から落ちたグラスが地面にぶつかる前に、それをキャッチしてくれたからだ。

今までにこの場所で見たことのない、紫色の手が。

グラスが落ちなかったこと、グラスをキャッチしてくれた紫色の手の両方とに驚いたがそっと顔を上げると、初めて姿の見えなかった彼と目が合った。そこにいたのは一匹のゲンガーだった。

「……あなた、ゲンガーだったの」

そう呟くと、ゲンガーは自分が思わず姿を現してしまったことに気が付いたのか、うげ、と声を上げるとグラスをテーブルに置いて慌てて姿を消した。それを見たは、小さく笑い声を漏らす。

「別に姿を隠さなくてもいいのに。……そうだ。よかったら、少し待ってて」

そう言っては店内へと戻ると、ポフィンを一つ手にテラスへと戻ってきた。

「さっきはありがとう。これは私からのお礼」

手のひらにポフィンを乗せて何もない空間へと差し出すとゲンガーはちゃんと待っていたようで、ゆらりと姿を現した。そしてポフィンを受け取ると、大きな口へと放り込む。

目の前で美味しそうにポフィンを頬張るゲンガーを見ながら、はつい釣られて微笑んだ。それから、みんなに姿の見えないお客さんの正体を教えてあげたら驚くだろうな、と、より一層柔らかく笑ったのだった。


グラス一つの距離
20150624/2013七夕企画



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