緩やかな風が吹く、穏やかな真夜中だった。ほんの少しだけ開けられた窓からは涼しい風が入り込み、窓辺の淡い色をしたカーテンをはためかせる。ぱたぱたと壁にぶつかる度に小さく音を立てるカーテンを見詰めていたナマエは、よし、と自分に言い聞かせるように呟くと腰を下ろしていたベッドからゆっくりと静かに立ち上がった。そして自室のドアを細心の注意を払いながら開け、そっと顔を出すと辺りの様子を伺う。幸いなことに廊下はしんと静まり返り、誰かが起き出すような気配は感じられない。それをしっかりと確認するとナマエは廊下を抜き足で歩き、更に階段をゆっくりと下りてゆく。
階段を下りてリビングを抜け、玄関に辿り着く頃にはナマエの心臓は煩い程に脈打っていた。落ち着けと心の中で自分に言い聞かせ、それから玄関のドアノブを捻る。がちゃり、と響いた音に思わず肩が跳ねた。だが、相変わらず家の中はしんと静まり返っている。ぎりぎり自分が通れる隙間を開けると、ナマエは滑るように外へと出た。そしてドアを静かに閉めると、鍵を掛ける。今度は先程のようにドアは音を立てなかった。玄関のドアの前から数メートル離れると、ナマエは振り返る。
───ごめんなさい、そう呟きながら。
ナマエは元より身体が丈夫では無かった。小さい頃からあまり体力が無く、少し激しい運動をすれば咳き込んだり貧血を起こすこともある程である。その為どうしても外へ出るよりは室内で過ごすことが多く、家族もまた心配だからとあまり外へナマエが出掛けることに良い顔をしなかった。それはナマエが少しずつ成長して昔に比べれば身体が丈夫になった今も変わらない。自分のことを心配してくれているのは痛い程に分かっていた。だが、ナマエはいつからかそんな生活に窮屈さを感じるようになったのだ。自分の身体が弱いことは知っている。けれど自由に外を歩きたいし、野生のポケモンに出逢ったりしたかった。そしてナマエは今日、こっそりと家を抜け出したのである。
遠くまで出掛けるつもりは無かった。ただ、ほんの少し窮屈な生活の息抜きが出来ればいい、とナマエは静まり返る町の中を一人ぶらぶらと宛も無く歩く。そうしてナマエが辿り着いたのは、町外れにある少し広い公園だった。昼間なんかは親子連れなどで賑わうが、真夜中だと当たり前のように誰もいない。公園の入り口から公園内をゆるりと見回したナマエは、公園へと足を踏み入れた。そして砂場の作りかけで放置された砂の山の横を通り、滑り台の下を通ると三つ並んだブランコの一番端へと腰掛けた。ブランコはナマエを乗せると少し錆び付いた音を立てる。
「少し、肌寒いかな」
日中に比べて夜は気温が下がり、薄い上着を羽織って来たとはいえ風が吹くと少し肌寒い。ぽつりと独り言を漏らしたナマエは、ブランコに座ったまま夜空を見上げた。もう少しで満月になるであろう月が目映く浮かんでいる。それをぼんやりとナマエが見上げていると、不意にナマエのすぐ傍でぎい、とブランコの錆び付いた音がした。驚いたナマエが音のした方へと顔を向けると真ん中のブランコを空けてその隣、つまりナマエの反対側の端のブランコにいつの間にやらミネズミが座っているではないか。
「なんだあ、ミネズミか。驚かさないでよ……あなたも散歩しに来たの?」
普段あまりポケモンと接する機会のないナマエは野生のポケモンに出逢えたことが嬉しくて、つい相手が野生のポケモンであるということを忘れて尋ねたが、すぐに野生のポケモンが返事をする訳がないよね、と自嘲する。だが、意外にもミネズミはナマエの言葉に尻尾をぱたりと一度振ると、きゅるると肯定するように鳴いた。まさか返事をしてくれるとは思いもよらなかったナマエは、それを聞くと顔を綻ばせる。
「そうなんだ。月も綺麗で、良い夜だもんね」
ナマエが笑うとミネズミは頷き、それからナマエへと手招きをした。それを見たナマエはまさか野生のポケモンに手招きをされるとは思わなかったので、一体何だろうかと少し訝しく思いながらもミネズミに近付く。するとミネズミはブランコの鎖をしっかりと握り、ナマエへと振り返りながらブランコを揺らした。
「あ、ええっと、押せってこと?」
ミネズミは頷く。分かった、そう言ってナマエがミネズミの小さな背中に手を伸ばした時だった。急に胸の辺りが苦しくなったかと思うと、続いて掠れた咳が断続的に出たのだ。思わずナマエはしゃがみ込み口に手を当てるも咳は止まらない。それ所か段々と息は荒くなり、胸を突き刺すような痛みが襲う。時々このような発作が起こることはあったが、これ程酷いものは初めてだった。少し夜風に当たり過ぎたのだろうか、とナマエはせき込みながらちらりと考える。
咳き込みながらふと、ナマエは自分をじっと見詰めるミネズミと目があった。どうしたのかと言いたげな顔をしているような気がして、ナマエは大丈夫、と呟く。するとミネズミはブランコから飛び降り、しゃがみ込むナマエの前へとやって来るとナマエの顔を覗き込んだ。ナマエはミネズミの大きな眼を見詰めた後、咳を堪えるように目を瞑る。その時ナマエの口を押さえる手に柔らかな小さい手が触れたかと思うと、目を瞑っているにも関わらずナマエの視界は真っ白く染まった。目の前で、何かが眩しい程に輝いたのだ。
「───え、」
ほんの少し眩さが収まったのを見計らって、ナマエはゆっくりと目を開ける。そしてナマエが目にしたのは、先程よりも更に幾分弱くなったものの、未だに光を放つ一匹のポケモンの姿だった。
「あなたは……」
実際に見たのは当然のことながら初めてだったが、名前くらいは知っていた。また、伝説のポケモンであるということも。ミュウ、そう小さく呟いたナマエの目の前で、ミュウは大きな瞳を瞬かせながら首を傾げた。先程までいたミネズミは、ミュウが変身したものだったのだ。恐らくミュウは他のポケモンに姿を変えることで人間に見付からないように暮らしているのだろう、そう思いながらナマエはどうして自分の前に姿を現したのかと尋ねようとする。しかしそれは再び咳き込んだことにより、言葉にならなかった。
苦しげに再び咳き込むナマエを見ていたミュウは、先程したようにその小さな手で口元を押さえるナマエの手に触れた。そしてナマエの額にこつんと自分の額を当てると、そっと眼を閉じる。するとミュウの身体は再び眩く光を放ち、その瞬間ナマエはミュウが触れた手からじわりと温かい何かが伝わるのを感じた。優しさや温もり、安らぎさえを感じさせるそれはゆっくりとナマエの身体を包み込む。そしてミュウの放つ光が収まる頃には、ナマエの咳はすっかり治まっていた。
「ミュウ、あなたが助けてくれたの?」
咳が治まったことは勿論だったが、何よりいつもよりもずっと身体が軽くなっていたのである。しかしナマエが尋ねてもミュウは眼を細めて笑うだけだ。ナマエはそっと手を伸ばすと、逃げもせず大人しくされるがままのミュウを優しく抱き締める。ありがとう、と何度も繰り返すとミュウはそれに応えるように小さく鳴き、そしていつの間にか溢れていたナマエの涙を拭うとミュウはナマエの手からするりと抜け出した。ナマエは立ち上がると、くるりと宙で回ったミュウへと向き直る。
「私、そろそろ帰らなきゃ」
こっそり家を抜け出して来たのだということをすっかり忘れていたナマエは苦笑する。ミュウはそれを聞くともう一度くるりと宙返りをし、ナマエの背中を押した。
「……ねえ、またあなたに会えるかな?」
公園を出た辺りで、ミュウに背中を押されながら振り返ったナマエが尋ねるとミュウはナマエのことをじっと見詰める。この公園にやって来たのも、ナマエの前に変身をしていたとはいえ姿を現したのも、全ては好奇心旺盛なミュウの気紛れだった。その為ミュウは長い尾をゆらりと揺らすと、どうかな、とでも言うかのように首を傾げる。それを見たナマエは笑みを溢すと、それじゃあ、と手を振ってから家への道を歩き出した。
途中振り返ると、もうそこにミュウはいなかった。それでも、ナマエはまたミュウに会える気がした。それじゃあ、そう言って手を振った際、またね。とナマエが笑ったら、確かにミュウは眼を細めて頷いたのだ。家を抜け出した時よりもずっと軽くなった心と身体を包むように夜風が吹く。肌寒さはもう感じない。奇跡というものはあるのだと信じずにはいられない、そんな夜だった。
奇跡に出逢う夜/20130707
七夕企画